GINZA history

江戸期の銀座

尾張屋版 江戸切絵図「築地八町堀日本橋絵図」(安政4年)

「銀座」の地名は、江戸時代の「銀座役所」に由来します。1603年に江戸幕府をひらいた徳川家康は、駿府にあった銀貨鋳造所を現在の銀座2丁目に移しました。その場所の正式な町名は新両替町でしたが、通称として「銀座」と呼ばれるようになったのです。


ところで、「銀座は海の中だった」と言う方がありますが、江戸以前の銀座周辺は完全に海の中であったわけではありません。銀座は江戸前島という、東京湾に大きく突き出した半島の先端部の低湿地帯であったと考えられています。それらの低湿地帯と日比谷入江、築地方面を埋め立てることから、江戸のまちづくりは始まったのです。

さて、「銀座」という座組織は幕府のために銀貨をつくる組織で、銀の買い入れや銀の管理、事務を取り扱う役所と、銀貨の鋳造を行う工場とがありました。ちなみに金を扱う金座は日本橋の、現在の日本銀行本店のところにありました。

銀座通り2丁目に建つ「銀座発祥の地」碑

静岡駅近くに建つ「駿府銀座発祥の地」碑

「銀座」は銀を特権的に扱うため、相当な利益があり、「銀座」役人の羽振りは相当良かったようです。しかしいくつもの不正事件をおこし、1800年(寛政12年)、「銀座」は日本橋蠣殻町に移転させられてしまいます。しかし銀座という通称だけは残ったのでした。
その他にも、銀座には「朱座」(朱を扱う)、「大判座」(幕府から特権を受けて贈答用の金貨を鋳造する)、「分銅座」(計量用の秤に用いる標準のおもりを制作、販売した。また貨幣をつくるための金銀塊はこの形で貯蔵された)などがありました。ちなみに大正期にできた銀座通連合会のロゴマークには、8つの分銅があしらわれています。


銀座は主に職人たちの住む町でしたが、尾張町周辺はたいへんなにぎわいを見せました。現在の銀座通りとみゆき通りの交差点には、恵比須屋、亀屋、布袋屋といった呉服店が軒を並べ、日本橋の三井越後屋に匹敵する商売繁盛ぶりだったといいます。

19世紀前半、現在の銀座通りとみゆき通りの交差点。尾張町の布袋屋、亀屋、恵比須屋呉服店が並ぶ。天保5年『江戸名所図会』より。

また、銀座には観世、金春、金剛の能役者たちの拝領屋敷がありました。周囲には関係者たちが居を構えました。金春流の師匠たちが、のちに金春芸者となり、現在の新橋芸者たちの基となりました。さらに木挽町地域には芝居小屋が建ち並んでいました。狩野画塾があったことも有名です。京橋川沿いには青物市場と竹河岸(建築資材としての竹を売買する)があり活気がありました。
このように、銀座は日本橋を起点とする東海道の一部でもある銀座通りに大きな商店がにぎわいをみせ、取り囲む川で活発な舟運流通が行われる一方、裏手に職人町がひろがり、能役者や歌舞伎役者、常盤津の師匠、画家たちの住む町でもあったのです。

明治・大正期の銀座

「東京第弐名所銀座通煉瓦石之図」広重(三代) 明治7年

京橋に建つ、銀座煉瓦の碑とガス灯レプリカ

元禄時代は大いににぎわった銀座ですが、文化文政の頃にはいったん廃れ、幕末にはかなり荒れた様子になっていました。

そんな銀座は、明治5年(1872)の大火を機に、明治政府によって西欧風の煉瓦街に生まれ変わったのです。設計したのはイギリス人建築家トーマス・ジェームス・ウォートルス。
計画は、(1)道路幅の拡大を中心とする街路整備計画、(2)煉瓦を主材料とする不燃性洋風家屋の建築、の二本柱から成り、建設のために当時の政府予算の約27分の一という巨額の支出が投じられました。 この結果、銀座通りの道路幅はそれまでの倍以上である十五間(27メートル)に広げられ、車道と歩道に分離されました。歩道部分は煉瓦敷き。ガス灯がともされ、街路樹として桜、松、楓が植えられました。さらに、それまでの街区スケールをもとに八間、五間という道路が整えられ、きれいな碁盤の目に整えられました。これが現在の銀座の街区の基礎となっていることは言うまでもありません。
また、煉瓦家屋はジョージアン様式というスタイルで建設されてゆきました。二階に張り出したバルコニーを円い列柱が支え、バルコニーの下には歩廊があるというもので、1丁目から順につくられていきました。できあがった煉瓦家屋は民間に払い下げられました。当時の建物価格としては大変な高額だったものの、煉瓦の質は劣悪で湿気がひどく、商品がすぐにだめになるような事態が頻出しました。そのため、できた当初は空き家だらけの状態だったようです。

最先端のモノと商人の集まる町

横浜と新橋をつなぐ、日本初の鉄道ができたのも明治5年のこと。新橋ステーションの駅前商店街ともいえる銀座には、西欧からの輸入商品や新しい商品を扱う商人たちが次々と店をひらきました。洋食屋、パン屋、鞄屋、牛鍋屋、時計商、西洋家具店、洋服店などなど。これら進取の気性に富んだ商人たちは店先にショーウィンドウを設け、江戸以前の座売りと違って、客が履物をはいたまま店内に気楽に入って商品を眺めることができるよう工夫をし、新しい商売の方法を切り開いていきました。
こうして、銀座は西欧風の街並みそのものを眺めて楽しんだり、ウィンドウショッピングを楽しむ街、すなわち、のちに「銀ぶら」と呼ばれる街歩きができる街となっていったのです。

西洋雑貨店 伊勢屋(銀座2丁目)

時計、眼鏡、測量器械 玉屋(銀座3丁目)

西洋酒問屋 清水谷商会(尾張町1丁目)

情報の発信基地

「東京名所銀座通朝野新聞社盛大之眞図」広重(三代) 明治12年 銀座4丁目和光のところにあった朝野新聞社

もうひとつの銀座の特徴は、新聞社の進出です。西洋の事物が集まるハイカラな街に、新しいものに敏感なジャーナリストたちが集まってきました。新橋ステーションは地方への物流の基地でもありました。一時は尾張町交差点(銀座四丁目交差点)のすべてが新聞社であった時代もあったほどです。新聞社に続いて雑誌社、関連する印刷所、広告会社などが進出し、銀座は一大情報発信基地でもあったのです。

銀ぶらのはじまり

勧工場・博品館

また明治も後半になると、勸工場ができてきます。勸工場とは今で言う百貨店、あるいはテナント商業ビルのようなもの。一間半ほどの通路の両側に、おもちゃ、絵草紙、文房具等々さまざまな雑貨を売る小さな店が並び、なだらかな通路を螺旋状に登って行くといつのまにか建物最上階に到達し、そのままなだらかに降りて来る、という構造でできていました。明治35年(1902)頃には銀座通りに7軒の勸工場がありました。

こうして銀座には多くの人が集まるようになっていったのですが、ショッピングだけではなく、銀座を歩くこと自体をかっこいいと思う人たち、銀座で人と会うことが時代の最先端を行っていると感じる人たちが現れてきます。銀座をぶらぶら歩き回る「銀ぶら」という言葉が出てきたのは大正4、5年(1915~6)頃とのことですが、銀ぶらの語源にはいくつかの説があります。
「銀座をぶらぶら歩く」はもちろんのこと、当時、銀座にいるごろつきや不良といったあまり良くない意味で「銀のブラ」という言葉もあってそれが転じて、特別な目的もなく銀座を散歩することを「銀ぶら」と言うようになった、とか、慶応義塾の学生が当時めずらしいものだったブラジル産のコーヒーを飲みに行くことを「銀座でブラジルコーヒー」略して「銀ぶら」というようになった、とか。
いずれにしても「銀ぶら」という言葉は、のちに広辞苑に掲載されるほど一般的な言葉となって定着し、今も銀座の魅力を語るに欠かせない言葉となっているのです。

カフェープランタン

大正13年に開業したカフェータイガーが翌年拡張工事をしたときの記念絵葉書

あこがれの銀座、最先端の銀座、文化人の集う特別な銀座というイメージを象徴するのがカフェープランタンの開業でした。明治44年(1911)、洋行帰りの画家・松山省三は、パリのカフェーの雰囲気を再現しようとしました。命名者は小山内薫、内装は若き日の岸田劉生らが手伝いました。カフェーというものを知らない人が多いため、維持会員を募りましたがそのメンバーは、永井荷風、森鴎外をはじめとするそうそうたる作家たち、それに新橋、赤坂のきれいどころも会員となりました。横浜のイタリア人の店でブレンドしたコーヒー、酒はウィスキーやブランデーだけでなく各種リキュールをそろえ、洋行体験のある文士や画家が集まって社交サロンとなりにぎわいました。それまで日本には、気楽なサロンとして談論風発たたかわせたり、人と待ち合わせに使ったり、ちょっと立ち寄ってお茶を飲んだりできるような場所はありませんでした。

続いてカフェーパウリスタ、カフェーライオン、タイガー等が次々とできました。これらの店は、それぞれの個性をもちながらもいずれもあこがれの西洋の香りをただよわせ、ここに身を置くだけでハイカラな気分を味あわせてくれるとともに、文化サロン的な役割を果たしたのです。そしてそこに集う有名人たちの一挙手一投足があこがれの対象となり、噂となって流れ、銀座のイメージづくりに大きく貢献したことは言うまでもありません。

銀座通連合会の発足

明治35年頃の銀座通り。煉瓦街は和風建築に改造されてしまっている

大正期に入る頃には、銀座の煉瓦街は住民の工夫によって見事に日本風に改造され、住みこなされていました。内部には畳を敷いて和風の生活を営むばかりでなく、ファサードにはのれんをかけ、増築し、すっかり和風にしてしまう建物が多かったのです。

街路樹は当初の桜、松、楓から柳に変わりました。柳は銀座の街路樹として定着し、銀座といえば柳、というほどになっていました。ところが東京市は銀座通りの道路改修計画をすすめ、車道を拡張し、柳を撤去してイチョウに植え替え、歩道をコンクリート舗装にするという計画を発表しました。

銀座の柳の碑

この計画、とくに柳の撤去に対して、地元住民は強く反対を訴え、それをきっかけとして大正8年(1919)に、銀座通り商店の連合団体である「京新聯合会」がつくられました。柳の撤去は市議会でも問題になったほどだったようですが、後藤新平市長は計画の断行に踏み切り、大正10年(1921)に柳はすべて抜き去られました。

のちに関東大震災後、再び柳の復活運動がおこり、昭和7年(1932)に柳は銀座の街路樹としてよみがえるのです。
京新連合会は、その後銀座通連合会と名を変え、戦後は晴海通り沿道の商店も加わり、銀座のにぎわいと安心安全を保つための活動を、現在も続けています。

関東大震災、そして戦争

震災と震災復興

大正12年(1923)9月1日、関東大震災によって、明治以来の銀座の顔ともいうべき煉瓦街はほぼ全滅してしまいます。煉瓦が倒壊したばかりでなく、ほぼ全域が火災で焼失してしまうのです。

関東大震災直後の銀座4丁目交差点付近。右上は歌舞伎座

銀座の商店は結束して復興に向けて動き出します。このときの様子は、水上瀧太郎の小説「銀座復興」に感動的に描かれています。
銀座通り沿道の商店は、復興のために精力的に動き、バラック建築をたてて11月10日にそろって店開きすることを決めました。前衛アーティストたちが、バラックのファサードをデザインしました。アーティストたちの表現は、大正期の自由な雰囲気のなかから生まれたモダンなデザインで、中にはかなり奇抜なものもあったようです。これらが独特の銀座の風景をつくりだし、それもひとつの話題となったのです。
一方、東京市は震災復興計画を打ち出しますが、銀座の大きな変化は、晴海通りの拡幅と昭和通りの建設でした。銀座の地図をよく見ると、4丁目だけ街区が少し狭くなっているのがわかります。これはこのとき晴海通りが拡幅されたからなのです。

デパートの進出

復興期の銀座には、デパートが進出してきました。まず大正13年に松坂屋がオープンしました。それまで慣例だった下足預かりをやめて、全館土足入場という画期的なものでした。そのほかにも有楽町、新橋駅との往復無料送迎バス、屋上に動物園をひらくなど、新商法を次々と打ち出しました。動物園にはヒョウやライオンもいたとか。

大正14年(1925)には松屋デパートが開店。中央に吹き抜けのある店舗には、水族館がありました。そして昭和5年、三越が開店。この3つのデパートの大規模開発に地元専門店は心配もしたようですが、かえって専門店としての競争力を高め、百貨店と専門店の共存共栄という銀座の特徴のひとつが、この時生まれたのです。 デパートは銀座に新しい顧客を引き入れ、復興の気運を高めました。昭和4年(1929)にはついに、不動産賃貸額が日本橋を抜いて全国一位となっています。そして全国に○○銀座が出来始めました。 阪急の小林一三によって、日比谷に映画・劇場街が開発されたのもこの頃。昭和9年には浅草から延伸してきた地下鉄がついに銀座まで開通。繁華街の頂点である浅草の客が、銀座にも流れてくるようになりました。こうして銀座は押しも押されぬ日本一の街と言われるようになったのです。

昭和8年ころの銀座6丁目。手前が松坂屋、奥に三越と松屋を望む

カフェーの全盛時代

昭和初期、銀座2丁目付近にはきらびやかなカフェーのネオンが輝いた

デパートと高級専門店が集まるショッピング街として、日本一の座を獲得した銀座には、カフェー、バー、喫茶店、小料理店も集中して、華やかな夜の世界をつくりだしていきました。昭和4年(1929)の警察調査では、銀座のカフェーとバーを合わせて約600軒を数えたといいます。
日本経済が大恐慌にあえぐ一方で、大阪資本による巨大カフェーが銀座通りに出店し、派手なネオンが連なりました。
通りではモボ、モガ(モダンボーイ、モダンガール)が闊歩していました。モボはオールバックにボルサリーノ、セイラーズボンにロイド眼鏡、腕にはステッキといういでたち。モガは断髪のイートンクロップに引き眉毛、斬新な柄の着物や最先端の洋装ファッションに身を包み、まるで舞台女優のように気取って歩いていたのです。
このころ、レコードが急速に普及し、銀座をテーマにした歌も次々発売されるようになりました。大ヒットをとばし、今でも有名なのが『東京行進曲』(西条八十作詞、中山晋平作曲)。「ジャズで踊ってリキュールで更けて、あけりゃダンサーの涙雨」の歌詞は、カフェー全盛時代の空気を表しています。

戦争へ

享楽的な雰囲気に浮かれる一方で、国は着実に戦争への歩みをすすめていました。モガが闊歩していた銀座の街頭では、婦人会が「贅沢は敵だ」「パーマネントはやめましょう」と呼びかけるようになります。昭和19年になると、街灯や都電のレールが取り外されて軍事物資に提供されたり、歌舞伎座などの大劇場も休場を命じられ、華やかなネオンも消え去りました。食糧不足から、銀座に畑を耕す人もいたのです。

松屋前にて婦人会の慰問デー募金活動。昭和10年代

焼け跡・築地から銀座、有楽町をのぞむ(提供:毎日新聞社)

銀座が初めて空襲を受けたのは、昭和20年1月27日のこと。この日、泰明小学校にも直撃弾が落とされ、先生が亡くなられました。
続けて3月9日、10日、5月25日と空襲を受け、銀座はほぼ全域が焼き尽くされました。家族を疎開させ主人ひとりで店を守った話、空襲の時に東芝ビル地下に逃げ込み爆撃をさけた話、銀座で生まれ育った人が疎開で初めて田舎暮らしをした苦労等々、戦争時の逸話がいくつも残っています。

戦後の復興から高度経済成長へ

占領下の銀座

通りには米兵にわかりやすい標識が立てられ、通り名も変えられた。昭和20年

昭和20年8月15日、ついに終戦の日を迎えました。9月8日、連合国占領軍のジープ、輸送車、戦車が延々と連なって銀座を通り、人々を驚かせます。
焼け残った大きな建物である、服部時計店、松屋デパートは接収されてPX(米軍専用の売店)となりました。占領軍は銀座の通りに自分たちにわかりやすい名前をつけ、英語の道路標識をたてました。

銀座の商店街の人々は、混乱にまぎれて銀座に入り込もうとする悪質なヤミ商人から銀座を守り、一刻も早く街ににぎわいを取り戻そうと、自ら復興計画をたてました。そして昭和21年4月に早くも「銀座復興祭」を開催するのです。このときには銀座通りの商店180軒が、再開店したといわれます。

戦後の銀座通りの露店

一方、銀座通りには露店が軒を並べ、米軍相手のおみやげ、衣服、食べ物、子どものおもちゃなどを売っていました。夜にはアセチレンの電灯がともり、独特の雰囲気を醸し出していたようです。露店は銀座商業の復興に大きな役割を果たし、銀座の風物詩として思い出す人も多いのですが、一方で不正が行われたり不衛生であるという理由から、昭和26年(1951)、GHQの命令によって廃止されてしまいました。

そしてサンフランシスコ講和条約が締結され、翌昭和27年(1952)4月、服部時計店や松屋デパートなどが返還されて、ようやく本格的な復興が始まるのです。

堀の埋め立てと高速道路

汐留川には水上バスがあった。昭和34年の銀座8丁目付近。

焼け野原となった銀座は、商人たちによってたくましく復興する一方、あらゆるところに空襲による瓦礫が積み重なった状態でした。昭和通りの中央分離帯にはえんえんと瓦礫の山が続いていたといいます。
頭を悩ませた人たちは、すでに大量のゴミが投げ込まれて汚れていた三十間堀を埋め立ててしまうことにします。
銀座ばかりでなく東京の街全体が、水辺の街、舟運の街だったのですが、時代の流れは経済成長と自動車中心の交通へと邁進しつつありました。銀座の堀を埋め立てることに反対運動をする人もありましたが、これを機に、銀座の周囲を取り囲んでいたすべての川は、埋め立てられていきます。銀座は川に囲まれた街から、高速道路に囲まれた街となりました。今も、京橋、新橋、数寄屋橋、三原橋をはじめ、交差点の名に、橋の名前が残っています。また橋のたもとにあった橋詰公園の名残りは、銀座に数少ない緑を提供しています。
昭和30年代初頭の銀座を舞台にした映画には、銀座をデートしたあとボート遊びを楽しむ様子など、水辺の風景が多く出てきます。一世を風靡したラジオドラマ「君の名は」の舞台も、外堀をわたる数寄屋橋上です。
京橋川から外堀、汐留川にかけては、日本で唯一の民間高速道路会社による、しかも店舗ビルの屋上を道路が走るという、高速道路ビルとなりました。

都電の街から地下鉄の街へ

外堀の埋め立てと平行して、新しい地下鉄工事が進められていました。昭和32年に営団地下鉄丸ノ内線西銀座駅(現・銀座駅)、38年に都営地下鉄浅草線東銀座駅、39年日比谷線銀座駅が次々と開業しました。東銀座駅から西銀座駅までの地下道が開通したのもこの時。
その後、昭和42年には、都電銀座線がついに廃止されました。昭和30年代までは都電線路が都内に縦横にめぐらされ、貴重な足となっていました。しかし自動車交通が発達し自動車台数が増加するにつれ、都電はかえって渋滞のもととなっていたのです。しかし銀座通りの都電風景はすでにひとつの風物詩となっており、12月9日夜、都電最後の夜、銀座通りではいっせいに人が繰り出し、都電との別れを惜しみました。
そして昭和49年、有楽町線銀座一丁目駅が開業し、銀座は5本の地下鉄が交錯し、いまや年間1億5500万人が乗降する地下鉄の街となったのです。 → 銀座と地下鉄についてはこちら

都電最後の日の銀座通り

都電最終電車に詰めかけた人波

大銀座時代

埋め立てられた三十間堀と、さらにその東を流れる築地川との間は木挽町という地名でした。徳川家康が江戸城を改築した際に、木挽き職人たちを住まわせたのが名のおこりといわれています。しかし昭和26年、隣町の木挽町が町名変更となり、銀座東となりました。 → まちづくりコラム
戦前からの銀座に加え、銀座西がありました。昭和43年、銀座西は「銀座」に、翌年には銀座東も「銀座」という地名となります。こうして「銀座」がひとつの街としてまとまり、のちに全銀座会のような組織ができていく契機となるのですが、現在も町会の分類は以前の名残をのこしており、また祭祀神社も、もとの銀座西と銀座は日枝神社、木挽町は鉄砲洲稲荷神社と分かれています。

銀座通り大改修と銀座祭り、歩行者天国

都電の廃止を機会に、建設省は銀座通りの大改修を計画しました。そのコンセプトは、通り上の付属物を出来る限り排除し、来るべき自動車社会にふさわしい見通しのよい近代的な通りというものです。
具体的には、

  • 電柱と電線をなくし、ガス、水道、電話線とともに地下に新設する共同溝におさめる。
  • 歩道の幅をひろげ、都電のレールの敷石に使われていた御影石を転用して御影石舗装とする。
  • 街路樹の柳を撤去し、低木のシャリンバイに植え替える。
  • 街灯を新しくデザインし、ガス灯風のマルチハロゲン灯に変更する。
といったものでした。

完成となった昭和43年は、明治百年でもありました。明治煉瓦街の建設によって近代日本の発展に重要な役割を果たした銀座では、10月に「明治百年記念大銀座祭」を開催します。色とりどりに装飾され、光におおわれた車が銀座通りでパレードを行うたいへん華やかなお祭りは毎年さまざまな趣向をこらして銀座の名物行事として定着し、平成11年(1999)まで続けられました。

また、昭和45年(1970)8月2日には、銀座通りで初めての歩行者天国が実施されました。このときの歩行者天国は「ホリデイプロムナード」と名付けられましたが、銀座では以後、8月最初の日曜日を「ホリデープロムナード」と称して、毎年イベントを開催しています。
歩行者天国は休日の銀座にすっかり定着しました。当初は銀座のほかに新宿、池袋、浅草の4カ所で実施されましたが、現在も続いているのは銀座だけです。

第1回 大銀座祭り

第1回 銀座祭り

歩行者天国の初日、人でごったがえす銀座の中央通り。1970年8月2日撮影(提供:読売新聞社)

高度経済成長、そしてオイルショック

経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれたのは昭和31年のこと。昭和39年には東京オリンピックが開催され、昭和44年には日本の経済力はGNP世界第二位となるほどに、日本は戦後の経済成長を突っ走って行きます。
その波に乗って昭和30年代から40年代前半にかけて銀座も、堀の埋め立て、高速道路の建設、地下鉄の整備、都電撤去、銀座通りの改修、新しい祭りの開始等々、大きな変貌をとげていました。
戦後すぐにたてられた木造建築も、次々とビルに建て変わり、大型化していきました。昭和41年竣工の数寄屋橋交差点のソニービルを皮切りに、4丁目交差点の三愛ビル、銀座最大を誇る東芝ビル、銀座ライオンビル、名鉄メルサ、資生堂ザ・ギンザなど、話題のビルが次々と建てられました。

しかしその繁栄も、昭和48年のオイルショックで頓挫します。第4次中東戦争により石油の値上げ、石油生産の削減と供給制限がなされ、日本政府もそれを受けて石油・電力の10%削減、マイカー自粛を打ち出したことで、主婦たちがトイレットペーパーなどの買いだめに殺到する事態となりました。
銀座のデパートは営業時間を短縮し、ついには繁華街の象徴たるネオンが消えてしまいました。銀座通連合会では、ネオン規制緩和の陳情も行ったのです。

銀座憲章の制定

銀座憲章

1984年、銀座通連合会は銀座憲章を定めました。

銀座は創造性ひかる伝統の街
銀座は品位と完成たかい文化の街
銀座は国際性あふれる楽しい街」

というもので、さらに行動綱領が付帯されています。

  1. 常に今日の視点からえりすぐった世界の商品と情報を、ゆきとどいたサービスで提供し、銀座の文化性を高める
  2. 地区の協力関係をふかめ、合同催事等の増幅展開によって、銀座イメージの訴求をつよめる
  3. 相互の信頼にもとづき、公正で節度ある競いによって、銀座の品位と魅力をたかめる
  4. 文化施設の誘致、文化・情報事業の促進、文化的イベント等の開催につとめる
  5. 国際的な商業の街として、水準の高い独自な景観と楽しい雰囲気づくりにつとめる
  6. どの国からの来街者も、楽しく歩き安心して目的を果たせる街の体制を整える
  7. 広域商圏地区として、どこからの来街にも便利な交通網と受入機能を拡充する
  8. 隣接地区をふくめ、地区の居住性をたかめ、より人間的な街づくりにつとめる

バブル期の銀座

オイルショック後、再び経済は盛り返し、昭和60年代には、「バブル経済」と呼ばれる空前の好景気が訪れました。銀座でも大きな金額の動く商売の話や華やかなパーティの連続、タクシー待ちの行列等、エピソードには事欠かないものの、実は、街の変化は別のところにありました。銀座通りに数々の金融機関が出店したのです。
歴史を振り返ると、銀座通りにはその時々で最も勢いのある商売の店が出店しています。たとえば明治煉瓦街の頃は西欧の事物を扱う店舗、昭和初期のカフェー等です。それと同様にバブル期には、銀行、証券会社などが、銀座通りに複数の支店を出したのです。しかし、金融機関はショッピングを楽しむところではなく、しかも銀座通りに多くのお客様が訪れる3時には閉店してしまうため、街のにぎわいづくりという点では、あまり望ましいとはいえない状態でした。
また、もともと高価であった銀座の地価が、あまりにも高騰したため、かえって流動することはありませんでした。この時期、他の街では往々にして地上げがなされ街の姿を変えてしまったのですが、銀座には大規模な地上げはおこらなかったのです。

バブル崩壊と規制緩和

銀座地区には、二種類の地区計画が条例で定められている。いずれも建物の最高高さは56メートル

バブル崩壊後、景気は低迷し、もちなおす気配がいっこうに見えないままに、銀座に土地をもつ人たちは、高すぎる地価に対する税金に苦しめられていました。お金を儲けるために土地に投資したわけではなく、先祖代々受け継いできた土地を守る者にとっては、自らの商売とまったく関係のない地価評価によって、固定資産税・相続税等を支払わなくてはならなかったからです。
また、戦後すぐに建てられたビルは、現行法規では、建て替えると建築当時の有効面積より減少するため、建て替えることができず、老朽化が進んでいました。そこで平成7年、銀座通連合会をはじめとする銀座の人たちは、中央区、東京都、建設省に対し、銀座の容積率を丸の内並みにしてもらおうと陳情を開始しました。
1997年11月、国の経済対策閣僚会議は「21世紀を切り開く緊急経済対策」を発表、そのなかで「都心中心地における容積率の緩和」を打ち出しました。 それに基づき建設省は「機能更新型高度利用地区」という制度を創設して、銀座はこの制度に基づいて、中央区と協議のうえ、地区計画「銀座ルール」を定めることになりました。

「銀座まちづくりヴィジョン」の策定

地区計画「銀座ルール」によって、銀座の基本的な骨格を定める一方、そのもととなる考え方をまとめようと、銀座通連合会では「銀座まちづくりヴィジョン」を策定しました。これは、銀座通連合会の創設80周年記念事業の一環として発行されたものです。

まちづくりヴィジョン

ヴィジョンでは、3つの方向からまちづくりを行うことを提案しています。

そのひとつは「水辺再生と路地の活性」。銀座は江戸以来、掘割と川に囲まれた水の街でした。また碁盤の目のような街路のあいだを路地がはりめぐらされ、その内部に生き生きとした生活が営まれていました。しかし、モータリゼーションの波に押し流されて水辺は消えていき、ビルが大型化するにつれ路地も消滅していきました。そのような歴史をふまえ、水や緑のうるおいのある環境づくりをしたり、路地空間を見直して人にやさしいくつろぎの場とするなど、古さと新しさが共存できるまちづくりをしていこうというものです。

2つめは、「新銀ブラ計画」。銀ブラという言葉に象徴されるように、銀座は歩いて楽しい街です。歩くことを中心に街を見直し、バリアフリーの視点から検討したり、わくわくする出会いの場を提供できるように通りごとの個性を打ち出したり、美しい景観のまちづくりをめざします。また、路上駐車を解消するためのさまざまな仕組みづくりや、車そのものを排除するパーク&ライドシステム、LRTなどの公共交通システムの検討などが含まれます。

3つめは、「新しい銀座カルチャーの創造」。銀座は商業の街ですが、経済のみで街が発展するわけではありません。むしろ銀座はそれぞれの時代ごとに個性ある文化が生まれ、それこそが街の発展を支えてきたのです。新しい社会文化的な価値が生まれ、情報発信できるように、若いアーティスト達に活動の場を与え支援するなど、文化創造の気運が生まれる仕組みづくりを提案します。

大銀座祭りの見直しと全銀座会の設立

1999年秋の第32回大銀座祭りをもって、昭和43年以来続いてきた大銀座祭りはいったん休止されることになりました。

そしてその年の12月31日には、銀座4丁目交差点で「2000年カウントダウン」が大々的に行われました。2000年の秋の祭りは開催せず、全銀座催事実行委員会を立ち上げて21世紀という新しい時代にふさわしい銀座の祭りとは何なのか、議論する日々が続きました。

1999年12月31日、銀座4丁目交差点でカウントダウンが催された。

銀座アキュイユのオープニングセレモニー

そして日本とシンガポールの自由貿易協定の締結記念イベントをきっかけに、2001年、銀座の新しい祭りとして「銀座アキュイユ」が実施されたのです。これまでの大銀座祭りは、広告代理店に企画運営をまかせていましたが、銀座の人たちが自分たちで考え、手作りで行うイベントでした。

さらに全銀座がひとつになって盛り上げた催事を機に、銀座八丁内にある23町会、通り会、商店会、協同組合、業種団体、任意団体からなる「銀座連絡会」を発展的解消し、新たに「全銀座会」を発足させました。銀座連絡会が報告と情報交換の場であったのに対し、全銀座会としての活動規約を定め、役員を選出して正式な組織とし、一歩踏み込んで銀座全体の意思決定機関とし、催事、街づくりなどの活動を行い、運営も会費制としました。

全銀座会組織図

銀座街づくり会議の設立と、地区計画の見直し

2003年、銀座通りに超高層大規模開発の計画が起こりました。銀座では、地区計画「銀座ルール」で「銀座通り沿いの建物の最高高さは56メートルとする」と決めたばかりでしたから、たいへん驚き、なぜそれが可能なのかと疑問をもちました。2001年に都市再生特別措置法という法律ができ、この法律に基づいた開発であれば、特別区に指定された地域においては、地域のルールを超えて大規模開発をしてもよいというものだったのです。銀座は「都市再生緊急整備地区」に指定されていました。そして地区計画「銀座ルール」には、実は「特別区による計画であれば、このルールを適用除外とする」という項目が存在していたのです。

銀座街づくり会議シンポジウム

"図のア地区においては、「文化の維持・継承に資する開発」であれば、高さの例外規定が設けられている

その他にも三越、歌舞伎座等、大型の開発が予定されていました。また、2001年にできた全銀座会が少しずつ形を整えて銀座全体のことを考える体制ができはじめ、まちづくりのさまざまな課題があがってきている時期でもありました。そこで、大規模開発に対する対策や建築のルールを考えるだけでなく、銀座全体の治安や景観、街全体の課題を考えていこうという気運もたかまり、「銀座街づくり会議」を発足して、開発の窓口とするとともに、専門家をまじえて銀座全体の街の課題を考えてゆくこととしたのです。

銀座街づくり会議では、次々とシンポジウムを開催して専門家の意見を聞くとともに、街の人たちが意見を言える場をつくりました。また町会や通り会をまわって勉強会をするなどして意見を集約していきました。

そうして中央区と、地区計画「銀座ルール」見直しの協議がはじまり、1年半にわたる地道な話し合いののち、地区計画「銀座ルール」は改正されたのです。その要点は、「特別区にかかわらず、銀座地区の建物の最高高さは56メートル(工作物を入れて66メートル)とする」というものでした。ただし、図のア地区については、土地利用のしかたも違うため、「文化等の維持・継承に寄与する」計画に限り、特例を認めることになりました。

しかし、建物の高さを決めただけでは、銀座らしい品位ある、センスのよい景観が保たれるかどうかはわかりません。また、数値や言葉で定義することのできない「銀座らしさ」は、全銀座会をはじめとして頻繁に行われる通り会や町会の会合、催事の協力などで仲間となって、お互い顔の見える関係のなかでつちかわれたコミュニティの力によって維持されてきた部分が多いのです。ですから、グローバル経済が進行する中、近隣の知らない間に建物を建て、情報も共有せず、街の活動にも参加せずに事業を行う、顔の見えない事業者が増えていけば、銀座らしさを保つことも難しくなります。

中央区の市街地開発事業指導要綱に定められた「デザイン協議会制度」の仕組み。区長によって指定された地元の協議会の合意を得なければ、手続きをすすめることはできない。

そこで、中央区と話し合い、一定規模以上の建築物や確認申請を必要とする工作物を計画する事業者は、確認申請や都市計画提案の前に地元と事前協議を行うことを定めた「銀座デザイン協議会」を設立することにしました。銀座デザイン協議会は、正式に中央区長の指定を受け、建物のデザイン、色彩、街並みとの調和、広告物内容など、数値では決められないことについて、銀座らしさを損なうものではないか、銀座の街をよりよくするものかどうか、といったことを開発業者と事前に話し合っています。合意した内容はそれぞれに中央区に報告されます。法的な拘束力はありませんが、この報告のなされていない開発事業は、手続きを先にすすめることができません。また、中央区はその報告内容を鑑みて、事業者に指導を行います。
さらに、この仕組みによってほとんどすべての新規事業者が銀座デザイン協議会を訪れることになり、情報が集約されるとともに、デザイン協議会が地元との顔合わせの場にもなっています。

銀座フィルター

こういったまちづくりの経緯と、それによって出来上がって行った仕組みの底流に脈々と息づいているのが「銀座フィルター」です。銀座フィルターとは、文書や決まり事ではなく、銀座らしいものを選り分ける粋な不文律、紳士協定です。「言葉や数値でルールを定めなくても、銀座らしくないものは、この目に見えないフィルターにかかって自然と消えて行く。銀座らしいものだけが生き残ってきた」と、銀座の人たちは考えています。
このような共通認識をもつためには、個別のさまざまなできごとや決めごとについて、しじゅう話し合い、コミュニケーションをとっておく必要があります。銀座の人たちは、そうすることで銀座フィルターを保ってきました。しかし経済がグローバル化してゆく中で、少しずつでも言葉にしてゆく必要が出てきています。

生き生きとした未来へ

銀座の催事

2004年、銀座アキュイユは「プロムナード銀座」と名をかえ、内容もさらに文化的イベント中心で、しかも商業の街 銀座にふさわしく販売促進につながる企画に生まれ変わりました。銀座アキュイユもプロムナード銀座も、「おもてなし」であったり「銀座を散策する」であったり、コンセプトに銀座らしさを打ち出したイベントです。しかし、そのいずれのコンセプトも、イベント期間だけでなく一年中、銀座の街が追求していくべきものです。大きなイベントが年に何回かあるよりは、年間を通じて、規模は小さくても銀座らしい文化的な内容で来街者をひきつけ、かつお店を楽しくまわっていただけるような企画がいくつもあったほうがよいのではないか。
そんな考えから、2010年からは秋の催事は「オータム・ギンザ(秋の銀座)」と名を変え、かつ企画を秋に集中するのではなく、春や夏に分散させて行うようになりました。

2012年現在、オータム・ギンザで行われている企画は、銀茶会、銀座レストランウィーク、銀座八丁神社巡り、画廊の夜会、銀座デザインフォーラム等です。 →Ginza Officialインフォメーション

銀座の路上で四千家が茶会を行う銀茶会

オータム・ギンザの冊子

「ゆかたで銀ぶら」には、ゆかた姿のお客様が大勢訪れ銀座を楽しみ、一斉に打ち水を行う

また、もうひとつの大きな全銀座会催事として「ホリデープロムナード」があります。昭和45年に初めて歩行者天国が実施されて以来、毎年8月第一日曜日にイベントが実施されていることは前述しましたが、2007年から、企画内容を刷新し、銀座全体を夏らしく演出すべく、「ゆかたで銀ぶら」をテーマに、浴衣姿で銀座を訪れた方にプレゼントの当たる大抽選会、各店舗のサービスなどを盛り込んだイベントとしました。国土交通省が主催して行う打ち水も、「銀座千人涼風計画」と銘打ったイベントとして、浴衣姿の人たちが一斉に行って盛り上げるようにしました。
さらに、西銀座通りが開催する銀座柳祭り(5月5日)、金春通りの金春祭り(8月中旬)、銀座すずらん通り会のすずらん祭り、西並木通り会のナイトクルーズ等、各通り会も独自の楽しいイベントを実施しています。

国際ブランド委員会

バブル経済期に銀座通りに軒を並べていた銀行や証券会社は、バブル崩壊後、次々と統合され、あるいは支店を撤退させ、90年代後半になるとその跡地に海外ブランドが出店するようになりました。こうして銀座はふたたび、商店に明るく彩られるようになったのです。
銀座通連合会では2001年「国際ブランド委員会(GILC: Ginza International Luxury Committee)」を設け、同じ地域で商売を営む者として海外ブランド店と情報を共有することにしました。GILCの参加メンバーは13社(2012年現在)。「海外ブランド店がいかに連携して銀座を活性化していくか」をテーマに、「銀座ジャズフェスティバル」(2005~2010)など、さまざまなイベントを提案、実施してきました。
現在は、クリスマス時期に銀座通りを華やかに彩るクリスマスイルミネーションを企画・実施しています。

銀座ジャズ・フェスティバル

2011年のクリスマスイルミネーション

ホームページによる情報発信

銀座では、早くからインターネットによる情報発信を重視してきました。今でこそ、街や地域が独自のサイトをもち、街の情報を発信することはあたりまえになっていますが、銀座では早くも1996年に、銀座の公式ホームページ「銀座コンシェルジュ」を立ち上げました。
銀座コンシェルジュは、2011年「銀座オフィシャル」としてリニューアルされ、銀座のお店や行事を紹介するばかりでなく、銀座で商売をする人々の思い、商売や銀座に対する考え方を伝えてよりいっそう銀座の魅力を伝えるようにつとめています。さらに国際的な情報発信をめざし、英語・中国語でも見られるようになりました。

銀座デザイン協議会と「銀座デザインルール」

2006年に刊行された「銀座デザインルール」。現在、第二版が刊行されている

2006年に発足した銀座デザイン協議会では、年間約100件の新築ならびに工作物の申請を受け付けてきました。現在では、申請義務のない案件であっても自主的にお知らせくださる事業者も増えています。そしてほとんどの事業者が、銀座地元の意見を聞き、よりよいデザインにすべく協力をしてくださっています。
大規模開発案件についても、構想段階から事業者と意見を交換し、大規模開発ならではの地域貢献のあり方について協議しています。
銀座デザイン協議会では、たとえば色の明度や彩度による規制、広告物の大きさ規制等、一般的なデザインガイドラインにあたるようなルールは定めていません。あくまで「銀座らしさ」が判断の基準です。しかしそれでは事業者にとっても不便が多いことから、デザイン協議会設立から1年余を経た2008年、「銀座デザインルール」という冊子をまとめました。
この冊子は、銀座まちづくりの経緯、地区計画「銀座ルール」の内容、全銀座会組織の説明等とともに、これまでの協議事例の数々が記されています。常に先進的であり続け、変化してゆくことを信条とする銀座は、ルールを固定的に考えるのではなく、協議経験と事例の積み重ねによって熟成させていくべきもの、新しい創造的なプロジェクト提案に対してルール自体が見直されるべきもの、と考えているからです。
さらなる事例の蓄積を経て、2011年末には「銀座デザインルール第二版」が発行されました。

大規模開発とファストファッションの進出

21世紀に入り、銀座ではこれまでにない規模の大規模開発がいくつも計画されました。
銀座4丁目交差点に面する三越は2010年、東側の街区と一体化して増床しました。銀座の街区構成は、徳川家康によってつくられ、明治煉瓦街が造成されたときに改めて整備された歴史的な街区です。人が歩いて生活していた時代にできあがったヒューマンスケールなサイズは、銀ぶらに欠かせないものといえます。三越は街区間の区道を付け替えましたが、通り抜け機能はそのまま残すこととし、銀座は三越および中央区と協議を重ね、将来にわたって街区間通路がつぶされることのないように、都市計画決定してもらいました。
また、銀座6丁目のギンザ・コマツは、街区はつなげていませんが、西側建物と通路でつなぎ、一体開発をしています。
歌舞伎座は、新しい地区計画「銀座ルール」によって、歌舞伎座のファサードは前建物のデザインをそのまま継承しつつ、背景に超高層オフィスビルを建設しています。江戸時代には芝居小屋が建ち並んだ木挽町文化を継承しつつ、地域と一体となった文化発信をしていくことを協議しています。2013年春の竣工予定です。
今後、東急TSビル、銀座通りの2街区を使った6丁目計画等の大規模開発が予定されています。このように建物は大型化、共同化していく傾向にありますが、通りに開かれ、にぎわいをもたらし、銀ぶらの楽しみを増すような計画にしてもらったり、駐輪場や大型バス停車場の設置、屋上庭園など、小規模な開発では実現しにくい地域貢献を実現できるよう事業者と協議を重ねています。
一方、近年の銀座の特徴として、ファストファッションブランドの進出があります。銀座はいつの時代も、その時に最も勢いのある商売が出店する街です。銀座は銀座に新しい時代の風を吹き込むお店に大いに期待をしています。しかし出店したからには、街の一員として、銀座らしい商売の仕方をしていただきたい。そして「銀座フィルター」をくぐりぬけ、新しい銀座ファンを増やしていただきたい。それが銀座の街の望みであるし、そうやって銀座は歴史を重ねてきたのです。

銀座通りの見直し

いつの時代も、銀座通りは銀座のシンボルであり続けてきました。しかし昭和43年に大規模な改修が行われて以来、さまざまな設備が老朽化する一方、新しい時代に即した設備の見直しも検討されています。
そもそも昭和43年の改修のコンセプトは、モータリゼーションの時代に対応することが第一義におかれていました。しかし、時代は変化し、美しい街並み景観づくりや、人と地球にやさしくうるおいのある環境づくり、歩くことを楽しむまちづくりが求められています。

2004年にはヒートアイランド現象に対する遮熱と騒音防止対策を施した車道舗装工事が完成しました。また、御影石の歩道敷石の補修工事も行われました。さらに、平成15年、江戸開府四百年事業の一環として、低木のシャリンバイが撤去され、花壇へと変えられました。その後、中木のイチイに植え替えられました。実は、このイチイは、銀座の今後の街路樹を検討していくなかで、中木の実験として植えられたもので、銀座では今も、銀座にふさわしい街路樹の選定について、国交省とともに検討を継続しています。
2006年には、国交省により街路灯デザインの国際コンペが開催されました。世界18カ国280作品のなかから松井淳氏の作品が選ばれ、最先端の技術であり、消費電力も少なくメンテナンスも最小限であるLEDを使用した、新しいデザインの街路灯にリニューアルされました。
さらにより安全な街をめざして防犯カメラも設置されました。また2012年、銀座通りにはWi-Fi設備が設置され、国内外からおとずれる来街者によりいっそう使いやすい通りとなりました。

現在の銀座通り

銀座の新たな課題見直しとヴィジョンづくりへ

21世紀に入ってから、グローバル経済やITの発展により大きく時代が変化するなか、銀座の街も全銀座会設立、祭り・催事の見直し、銀座街づくり会議・銀座デザイン協議会の設立、銀座通りのリニューアルと、大きく動いてきました。そんななかで、新たな課題があらわになってくるとともに、これから銀座をどんな街にしていきたいのか、というヴィジョンづくりも求められています。
人口減少と少子高齢化社会への対応、環境問題への対応は、どこの街にとっても欠かせないテーマですが、銀座の地域でみると、周辺地域の住民の増加による消費構造の変化(郊外からの来街者ではなく、近隣住民の日常の買い物。社用族から個人の消費へ等)、それにともない、また環境という視点からも公共交通への考え方の変化があげられます。一方で、国内だけでなく海外からの来街者への対応も、国際観光という視点から力を入れていくべきことのひとつでしょう。
地区計画「銀座ルール」では、商業用途の誘導に重心がおかれていますが、街は商業だけで成り立つものではありません。もともと、銀座の商店も1階で商売を営み、家族は2階に住んでいました。また、ビル上層部には小さなオフィスがたくさんあり、オフィスで働く人々も、銀座の消費を支えていたのです。今後の持続可能なまちづくりをめざすためには、再び用途を見直し、「住む(住居)」「働く(オフィス)」要素がミックスしたまちづくりが必要です。


文・竹沢えり子

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