ヒストリー

尾張屋版 江戸切絵図「築地八町堀日本橋絵図」(安政4年)

江戸期の銀座

「銀座」の地名は、江戸時代の「銀座役所」に由来します。1603年に江戸幕府をひらいた徳川家康は、駿府にあった銀貨鋳造所を現在の銀座2丁目に移しました。その場所の正式な町名は新両替町でしたが、通称として「銀座」と呼ばれるようになったのです。
ところで、「銀座は海の中だった」と言う方がありますが、江戸以前の銀座周辺は完全に海の中であったわけではありません。銀座は江戸前島という、東京湾に大きく突き出した半島の先端部の低湿地帯であったと考えられています。それらの低湿地帯と日比谷入江、築地方面を埋め立てることから、江戸のまちづくりは始まったのです。
さて、「銀座」という座組織は幕府のために銀貨をつくる組織で、銀の買い入れや銀の管理、事務を取り扱う役所と、銀貨の鋳造を行う工場とがありました。ちなみに金を扱う金座は日本橋の、現在の日本銀行本店のところにありました。

銀座通り2丁目に建つ「銀座発祥の地」碑

静岡駅近くに建つ「駿府銀座発祥の地」碑

「銀座」は銀を特権的に扱うため、相当な利益があり、「銀座」役人の羽振りは相当良かったようです。しかしいくつもの不正事件をおこし、1800年(寛政12年)、「銀座」は日本橋蠣殻町に移転させられてしまいます。しかし銀座という通称だけは残ったのでした。
その他にも、銀座には「朱座」(朱を扱う)、「大判座」(幕府から特権を受けて贈答用の金貨を鋳造する)、「分銅座」(計量用の秤に用いる標準のおもりを制作、販売した。また貨幣をつくるための金銀塊はこの形で貯蔵された)などがありました。ちなみに大正期にできた銀座通連合会のロゴマークには、8つの分銅があしらわれています。
銀座は主に職人たちの住む町でしたが、尾張町周辺はたいへんなにぎわいを見せました。現在の銀座通りとみゆき通りの交差点には、恵比須屋、亀屋、布袋屋といった呉服店が軒を並べ、日本橋の三井越後屋に匹敵する商売繁盛ぶりだったといいます。

19世紀前半、現在の銀座通りとみゆき通りの交差点
尾張町の布袋屋、亀屋、恵比須屋呉服店が並ぶ 天保5年『江戸名所図会』より

また、銀座には観世、金春、金剛の能役者たちの拝領屋敷がありました。周囲には関係者たちが居を構えました。金春流の師匠たちが、のちに金春芸者となり、現在の新橋芸者たちの基となりました。さらに木挽町地域には芝居小屋が建ち並んでいました。狩野画塾があったことも有名です。京橋川沿いには青物市場と竹河岸(建築資材としての竹を売買する)があり活気がありました。
このように、銀座は日本橋を起点とする東海道の一部でもある銀座通りに大きな商店がにぎわいをみせ、取り囲む川で活発な舟運流通が行われる一方、裏手に職人町がひろがり、能役者や歌舞伎役者、常盤津の師匠、画家たちの住む町でもあったのです。

銀座通り2丁目に建つ「銀座発祥の地」碑

静岡駅近くに建つ「駿府銀座発祥の地」碑

19世紀前半、現在の銀座通りとみゆき通りの交差点
尾張町の布袋屋、亀屋、恵比須屋呉服店が並ぶ 天保5年『江戸名所図会』より

「東京第弐名所銀座通煉瓦石之図」広重(三代) 明治7年

明治・大正期の銀座

元禄時代は大いににぎわった銀座ですが、文化文政の頃にはいったん廃れ、幕末にはかなり荒れた様子になっていました。
そんな銀座は、明治5年(1872)の大火を機に、明治政府によって西欧風の煉瓦街に生まれ変わったのです。設計したのはイギリス人建築家トーマス・ジェームス・ウォートルス。
計画は、(1)道路幅の拡大を中心とする街路整備計画、(2)煉瓦を主材料とする不燃性洋風家屋の建築、の二本柱から成り、建設のために当時の政府予算の約27分の一という巨額の支出が投じられました。
この結果、銀座通りの道路幅はそれまでの倍以上である十五間(27メートル)に広げられ、車道と歩道に分離されました。歩道部分は煉瓦敷き。ガス灯がともされ、街路樹として桜、松、楓が植えられました。さらに、それまでの街区スケールをもとに八間、五間という道路が整えられ、きれいな碁盤の目に整えられました。これが現在の銀座の街区の基礎となっていることは言うまでもありません。
また、煉瓦家屋はジョージアン様式というスタイルで建設されてゆきました。二階に張り出したバルコニーを円い列柱が支え、バルコニーの下には歩廊があるというもので、1丁目から順につくられていきました。できあがった煉瓦家屋は民間に払い下げられました。当時の建物価格としては大変な高額だったものの、煉瓦の質は劣悪で湿気がひどく、商品がすぐにだめになるような事態が頻出しました。そのため、できた当初は空き家だらけの状態だったようです。

京橋に建つ、銀座煉瓦の碑とガス灯レプリカ

最先端のモノと商人の集まる町

横浜と新橋をつなぐ、日本初の鉄道ができたのも明治5年のこと。新橋ステーションの駅前商店街ともいえる銀座には、西欧からの輸入商品や新しい商品を扱う商人たちが次々と店をひらきました。洋食屋、パン屋、鞄屋、牛鍋屋、時計商、西洋家具店、洋服店などなど。これら進取の気性に富んだ商人たちは店先にショーウィンドウを設け、江戸以前の座売りと違って、客が履物をはいたまま店内に気楽に入って商品を眺めることができるよう工夫をし、新しい商売の方法を切り開いていきました。
こうして、銀座は西欧風の街並みそのものを眺めて楽しんだり、ウィンドウショッピングを楽しむ街、すなわち、のちに「銀ぶら」と呼ばれる街歩きができる街となっていったのです。

西洋雑貨店 伊勢屋(銀座2丁目)

時計、眼鏡、測量器械 玉屋(銀座3丁目)

西洋酒問屋 清水谷商会(尾張町1丁目)

情報の発信基地

もうひとつの銀座の特徴は、新聞社の進出です。西洋の事物が集まるハイカラな街に、新しいものに敏感なジャーナリストたちが集まってきました。新橋ステーションは地方への物流の基地でもありました。一時は尾張町交差点(銀座四丁目交差点)のすべてが新聞社であった時代もあったほどです。新聞社に続いて雑誌社、関連する印刷所、広告会社などが進出し、銀座は一大情報発信基地でもあったのです。

「東京名所銀座通朝野新聞社盛大之眞図」広重(三代) 明治12年 銀座4丁目和光のところにあった朝野新聞社

銀ぶらのはじまり

また明治も後半になると、勸工場ができてきます。勸工場とは今で言う百貨店、あるいはテナント商業ビルのようなもの。一間半ほどの通路の両側に、おもちゃ、絵草紙、文房具等々さまざまな雑貨を売る小さな店が並び、なだらかな通路を螺旋状に登って行くといつのまにか建物最上階に到達し、そのままなだらかに降りて来る、という構造でできていました。明治35年(1902)頃には銀座通りに7軒の勸工場がありました。

勧工場・博品館

こうして銀座には多くの人が集まるようになっていったのですが、ショッピングだけではなく、銀座を歩くこと自体をかっこいいと思う人たち、銀座で人と会うことが時代の最先端を行っていると感じる人たちが現れてきます。銀座をぶらぶら歩き回る「銀ぶら」という言葉が出てきたのは大正4、5年(1915~6)頃とのことですが、銀ぶらの語源にはいくつかの説があります。
「銀座をぶらぶら歩く」はもちろんのこと、当時、銀座にいるごろつきや不良といったあまり良くない意味で「銀のブラ」という言葉もあってそれが転じて、特別な目的もなく銀座を散歩することを「銀ぶら」と言うようになった、とか、慶応義塾の学生が当時めずらしいものだったブラジル産のコーヒーを飲みに行くことを「銀座でブラジルコーヒー」略して「銀ぶら」というようになった、とか。
いずれにしても「銀ぶら」という言葉は、のちに広辞苑に掲載されるほど一般的な言葉となって定着し、今も銀座の魅力を語るに欠かせない言葉となっているのです。

カフェープランタン

あこがれの銀座、最先端の銀座、文化人の集う特別な銀座というイメージを象徴するのがカフェープランタンの開業でした。明治44年(1911)、洋行帰りの画家・松山省三は、パリのカフェーの雰囲気を再現しようとしました。命名者は小山内薫、内装は若き日の岸田劉生らが手伝いました。カフェーというものを知らない人が多いため、維持会員を募りましたがそのメンバーは、永井荷風、森鴎外をはじめとするそうそうたる作家たち、それに新橋、赤坂のきれいどころも会員となりました。横浜のイタリア人の店でブレンドしたコーヒー、酒はウィスキーやブランデーだけでなく各種リキュールをそろえ、洋行体験のある文士や画家が集まって社交サロンとなりにぎわいました。それまで日本には、気楽なサロンとして談論風発たたかわせたり、人と待ち合わせに使ったり、ちょっと立ち寄ってお茶を飲んだりできるような場所はありませんでした。
続いてカフェーパウリスタ、カフェーライオン、タイガー等が次々とできました。これらの店は、それぞれの個性をもちながらもいずれもあこがれの西洋の香りをただよわせ、ここに身を置くだけでハイカラな気分を味あわせてくれるとともに、文化サロン的な役割を果たしたのです。そしてそこに集う有名人たちの一挙手一投足があこがれの対象となり、噂となって流れ、銀座のイメージづくりに大きく貢献したことは言うまでもありません。

大正13年に開業したカフェータイガーが翌年拡張工事をしたときの記念絵葉書

銀座通連合会の発足

大正期に入る頃には、銀座の煉瓦街は住民の工夫によって見事に日本風に改造され、住みこなされていました。内部には畳を敷いて和風の生活を営むばかりでなく、ファサードにはのれんをかけ、増築し、すっかり和風にしてしまう建物が多かったのです。
街路樹は当初の桜、松、楓から柳に変わりました。柳は銀座の街路樹として定着し、銀座といえば柳、というほどになっていました。ところが東京市は銀座通りの道路改修計画をすすめ、車道を拡張し、柳を撤去してイチョウに植え替え、歩道をコンクリート舗装にするという計画を発表しました。

明治35年頃の銀座通り 煉瓦街は和風建築に改造されてしまっている

この計画、とくに柳の撤去に対して、地元住民は強く反対を訴え、それをきっかけとして大正8年(1919)に、銀座通り商店の連合団体である「京新聯合会」がつくられました。柳の撤去は市議会でも問題になったほどだったようですが、後藤新平市長は計画の断行に踏み切り、大正10年(1921)に柳はすべて抜き去られました。
のちに関東大震災後、再び柳の復活運動がおこり、昭和7年(1932)に柳は銀座の街路樹としてよみがえるのです。
京新連合会は、その後銀座通連合会と名を変え、戦後は晴海通り沿道の商店も加わり、銀座のにぎわいと安心安全を保つための活動を、現在も続けています。

京橋に建つ、銀座煉瓦の碑とガス灯レプリカ

西洋雑貨店 伊勢屋(銀座2丁目)

時計、眼鏡、測量器械 玉屋(銀座3丁目)

西洋酒問屋 清水谷商会(尾張町1丁目)

「東京名所銀座通朝野新聞社盛大之眞図」広重(三代)
明治12年 銀座4丁目和光のところにあった朝野新聞社

勧工場・博品館

大正13年に開業したカフェータイガーが翌年拡張工事をしたときの記念絵葉書

明治35年頃の銀座通り 煉瓦街は和風建築に改造されてしまっている

銀座の柳の碑

関東大震災直後の銀座4丁目交差点付近。右上は歌舞伎座

関東大震災、そして戦争

震災と震災復興

大正12年(1923)9月1日、関東大震災によって、明治以来の銀座の顔ともいうべき煉瓦街はほぼ全滅してしまいます。煉瓦が倒壊したばかりでなく、ほぼ全域が火災で焼失してしまうのです。
銀座の商店は結束して復興に向けて動き出します。このときの様子は、水上瀧太郎の小説「銀座復興」に感動的に描かれています。
銀座通り沿道の商店は、復興のために精力的に動き、バラック建築をたてて11月10日にそろって店開きすることを決めました。前衛アーティストたちが、バラックのファサードをデザインしました。アーティストたちの表現は、大正期の自由な雰囲気のなかから生まれたモダンなデザインで、中にはかなり奇抜なものもあったようです。これらが独特の銀座の風景をつくりだし、それもひとつの話題となったのです。
一方、東京市は震災復興計画を打ち出しますが、銀座の大きな変化は、晴海通りの拡幅と昭和通りの建設でした。銀座の地図をよく見ると、4丁目だけ街区が少し狭くなっているのがわかります。これはこのとき晴海通りが拡幅されたからなのです。

デパートの進出

復興期の銀座には、デパートが進出してきました。まず大正13年に松坂屋がオープンしました。それまで慣例だった下足預かりをやめて、全館土足入場という画期的なものでした。そのほかにも有楽町、新橋駅との往復無料送迎バス、屋上に動物園をひらくなど、新商法を次々と打ち出しました。動物園にはヒョウやライオンもいたとか。
大正14年(1925)には松屋デパートが開店。中央に吹き抜けのある店舗には、水族館がありました。そして昭和5年、三越が開店。この3つのデパートの大規模開発に地元専門店は心配もしたようですが、かえって専門店としての競争力を高め、百貨店と専門店の共存共栄という銀座の特徴のひとつが、この時生まれたのです。
デパートは銀座に新しい顧客を引き入れ、復興の気運を高めました。昭和4年(1929)にはついに、不動産賃貸額が日本橋を抜いて全国一位となっています。そして全国に○○銀座が出来始めました。
阪急の小林一三によって、日比谷に映画・劇場街が開発されたのもこの頃。昭和9年には浅草から延伸してきた地下鉄がついに銀座まで開通。繁華街の頂点である浅草の客が、銀座にも流れてくるようになりました。こうして銀座は押しも押されぬ日本一の街と言われるようになったのです。

昭和8年ころの銀座6丁目 手前が松坂屋、奥に三越と松屋を望む

カフェーの全盛時代

デパートと高級専門店が集まるショッピング街として、日本一の座を獲得した銀座には、カフェー、バー、喫茶店、小料理店も集中して、華やかな夜の世界をつくりだしていきました。昭和4年(1929)の警察調査では、銀座のカフェーとバーを合わせて約600軒を数えたといいます。
日本経済が大恐慌にあえぐ一方で、大阪資本による巨大カフェーが銀座通りに出店し、派手なネオンが連なりました。
通りではモボ、モガ(モダンボーイ、モダンガール)が闊歩していました。モボはオールバックにボルサリーノ、セイラーズボンにロイド眼鏡、腕にはステッキといういでたち。モガは断髪のイートンクロップに引き眉毛、斬新な柄の着物や最先端の洋装ファッションに身を包み、まるで舞台女優のように気取って歩いていたのです。
このころ、レコードが急速に普及し、銀座をテーマにした歌も次々発売されるようになりました。大ヒットをとばし、今でも有名なのが『東京行進曲』(西条八十作詞、中山晋平作曲)。「ジャズで踊ってリキュールで更けて、あけりゃダンサーの涙雨」の歌詞は、カフェー全盛時代の空気を表しています。

昭和初期、銀座2丁目付近にはきらびやかなカフェーのネオンが輝いた

戦争へ

享楽的な雰囲気に浮かれる一方で、国は着実に戦争への歩みをすすめていました。モガが闊歩していた銀座の街頭では、婦人会が「贅沢は敵だ」「パーマネントはやめましょう」と呼びかけるようになります。昭和19年になると、街灯や都電のレールが取り外されて軍事物資に提供されたり、歌舞伎座などの大劇場も休場を命じられ、華やかなネオンも消え去りました。食糧不足から、銀座に畑を耕す人もいたのです。

松屋前にて婦人会の慰問デー募金活動。昭和10年代

銀座が初めて空襲を受けたのは、昭和20年1月27日のこと。この日、泰明小学校にも直撃弾が落とされ、先生が亡くなられました。
続けて3月9日、10日、5月25日と空襲を受け、銀座はほぼ全域が焼き尽くされました。家族を疎開させ主人ひとりで店を守った話、空襲の時に東芝ビル地下に逃げ込み爆撃をさけた話、銀座で生まれ育った人が疎開で初めて田舎暮らしをした苦労等々、戦争時の逸話がいくつも残っています

焼け跡・築地から銀座、有楽町をのぞむ(提供:毎日新聞社)

昭和8年ころの銀座6丁目 手前が松坂屋、奥に三越と松屋を望む

昭和初期、銀座2丁目付近にはきらびやかなカフェーのネオンが輝いた

松屋前にて婦人会の慰問デー募金活動 昭和10年代

焼け跡・築地から銀座、有楽町をのぞむ(提供:毎日新聞社)