銀ぶら百年

トラヤ帽子店のパナマ帽

Ginza×銀ぶら百年 Vol.17

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

トラヤ帽子店のパナマ帽

2018.06.25

泉 麻人

 銀座らしい店の1つに帽子屋さんがある。銀座通りを歩くと、ひと昔前までは8丁目に大徳、2丁目にトラヤ、老舗の帽子屋が南北の隅にあった。新橋寄りの大徳のほうはもう30年近く前に消えてしまったが、京橋寄りのトラヤはいまも健在だ。僕も、4、5年ほど前にここで買ったパナマ帽を夏の季節に愛用している。
「テシ(Tesi)っていうイタリア・フィレンツェのメーカーのものですがね、生産しているのはエクアドル。パナマ帽っていっても、だいたいつくっているのはエクアドルでしてね、船で積み出す港があるパナマの名前のほうが定着しちゃったってわけですよ」
 いい調子でしゃべるベテランの店員さんからいろいろと講釈を受けたことを思い出す。そのとき、帽子をくるくるっと巻きつけるようにたたんで、スマートにカバンに収納する術も教わった。
 5月の中ごろ、そのパナマ帽をカバンに仕込んで、2丁目の「トラヤ帽子店」へと取材に向かった。本当は、アロハかポロシャツにパナマ帽……という夏のスタイルで訪問したかったのだが、数日来続いたバカ陽気が終わって、この日は妙に肌寒い。とはいえ、初夏の季節に入った店のショーウインドーにはパナマ帽をはじめとした、夏らしい帽子がレイアウトされていた。
 取材に立ち合っていただいたのは店長の大瀧雄二郎さん。僕とほぼ同年代の方で、80年代のはじめからこの店に勤務している。
 店の歴史はHPなどにも簡単に解説されているが、大正6年(1917年)に神田神保町(すずらん通り)で開店した。が、それはあくまで東京の店舗のことで、もとは明治時代に京都で立ちあがった帽子店という。
「創業家の姓は八橋といいましてね、あの和菓子の八ツ橋なんかともなんらかの関係があるとかないとか……」
 すると、トラヤの屋号も羊羹の「とらや」とどこか古い所でつながっている可能性があるかもしれない。
神保町店の店頭で
神保町店の店頭で
 神保町時代の店に関する興味深い資料を大瀧店長からいただいた。「実業之日本」誌の昭和5年(1930年)10月号の記事。「トラヤ帽子店はどうして今日の繁昌を招いたか」というタイトルをつけて、創業家の八橋康平氏の写真(モーニング風スーツでバシッとキメている)も載っている。
「神保町の商店街を歩いてこの店の名を知らない人はないだらう。又、この名に氣つかぬ人も(また)少なからう……。トラヤの帽子か、帽子のトラヤか……とまれ、今では銀座の大徳屋と共に、日本的帽子屋として、神田街頭に堅実な地盤をつくってゐるトラヤ……」
 なんていう解説からして神保町のランドマーク的な人気店だったことがわかる。記事とともに複写してもらった昭和初期の神保町住宅地図を見ると、場所は三省堂書店のすずらん通り側の一角。品揃えは場所柄、学生向けに学帽よりちょっとオシャレな鳥打帽やソフト帽を揃えた、といったコンセプトが記事の後半に書かれている。
 銀座に進出するのは、この記事が出た昭和5年の春のことだが、当時の銀座の店はいまの場所よりやや京橋寄り、はす向かい側にあたる1丁目の南角。現在ハリー・ウィンストンが入っているビルの所に建っていた。
大正6年の神保町店(右)、昭和5年の銀座店
大正6年の神保町店(右)、昭和5年の銀座店
 この当時、銀座を歩く人の服装や職業を細かく調査した〝考現学″の学者・今和次郎とそのチームのレポートが残されている。銀座通りでの実地調査が行われたのは、トラヤの開店より5年前の1925年5月のことだが、通行する男性の帽子の形を分類したユニークな図解表がある。
 これによると、中折れ(ソフト)型が125人で圧倒的に多く、次が鳥打ち帽(ハンチング)の23人。「ムギワラ」と添え書きされたカンカン帽が1人……ちなみに中折れ帽をかぶった125人の内104人が洋服、21人が和服と記されているから、つまり昭和初めの時点で少なくとも銀座では、洋服+中折れ帽のスタイルが男性にかなり浸透していたのだ。学生や労働者のファッションも別項に分類されているが、銀ぶらする学生のほとんどが学帽やラシャ製の中折れ帽や鳥打ち帽を着用していたようだ。
 この時期の新聞記事も見つけた。
<姿を見せた麦わら帽子 山高くつばの狭いのが流行>
なんて見出しをつけて、「帽子の好みもこの頃は洋服に調和する様なのが好かれ、今年の流行は色は茶、鼠、ローズで山の高いつばの狭い不均整な型で、材料は染色した麦わら、羽二重……」と、年ごとにデザインや流行色が存在していたほど重要なファッション・アイテムだったことがよくわかる。いわゆるモボ・モガのブームとも関連していたのだろう。
 もっとも、帽子の流行は昭和、大正よりもさらにさかのぼった明治時代後半には始まっている。たとえば「資生堂社史」の年表には、明治25年(1892年)5月に早くも「パナマ帽流行」という項目があり、この年に渋沢栄一が指揮をとって、日本初の帽子製造会社「東京帽子株式会社」を設立したことが記されている。明治時代は山高帽子が主流だった(以前ここで取りあげた「天下堂」の広告にも山高帽のカットが描かれていた)ようだが、トラヤでも当初は東京帽子の商品を扱っていたらしい。
 ちなみに、いまどきの店内で目につくメーカーは、なんといっても「ボルサリーノ」。なかでも〝モンテクリスティ・エクストラ・ファイン″と呼ばれる30万円の最上級パナマ帽は、エクアドルの丘陵地・モンテクリスティという村で生産される上質のヒピハパ(葉の繊維)を使って、ていねいに手編みで仕上げられる。
大瀧支配人に決めの角度を教わって
大瀧支配人に決めの角度を教わって
「ヒピハパっていうのは別名トキヤソウともいうんですが、麦わらというよりヤシやシュロに似た植物なんですよ」
 ところで、「仕上げる」といっても、エクアドルで作業が行われるのは、成形以前の段階まででこれをオリジナルの木型を使って形を整えていくのは、イタリア・アレッサンドリアのボルサリーノ社の職人たちなのだ。
 ボルサリーノというと、パナマ帽に限らず、中折れ型の帽子の俗称のようにも使われているが、それを広めたのは、なんといっても映画『カサブランカ』のハンフリー・ボガートだろう。1942年の制作だが、日本での公開は戦後。トレンチコートとのコーデをムリヤリ真似した日本男児も少なくない。
 僕の世代は中学生の洋画デビュー期に、そのものズバリ『ボルサリーノ』というアラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドの映画があった。当時、ボルサリーノが帽子のブランド名とはツユ知らず、彼らギャングが根城にする町や組織の名……なんて漠然とイメージしていた。
 ボルサリーノ調の帽子、わが日本のスターでまず思い浮かんでくるのは『勝手にしやがれ』や『時の過ぎゆくままに』あたりを歌っていたころのジュリー=沢田研二。『カサブランカ・ダンディ』というボギーそのもののテーマの曲もあった。
 そして、エーちゃん(矢沢永吉)をイメージする人もけっこういるようだ。僕は知らなかったのだが、ライブ終盤の定番曲の1つである『止まらないHa~Ha』の際、ヤザワはボルサリーノ調のパナマ帽をかぶって現れる。おなじみのタオルを振ってリアクションする観客ばかりでなく、ヤザワと同じパナマ帽を調達するファンも少なくない。実際、矢沢本人がスタイリストを通じてトラヤの商品を使っていたこともあり、<ROCK>のタグをつけたオリジナルのパナマ帽をこの店で販売していた時期もあったという。
 トラヤの帽子を愛用した有名人はほかにも多々存在するようだが、へーっと思ったのは、手塚治虫先生。ボルサリーノのフェルト帽やパナマ帽、あるいはカウボーイハットやハンチングでもなく、もちろんベレー帽だ。手塚先生が好んでいたLaulhereのベレーをかぶらせてもらって、写真を撮った。しかし、ベレーをかぶってメガネを掛けると、だれでもマンガ家っぽくなるものだ。いや、それほど手塚治虫の印象が強い、ということもあるのだろう。
手塚治虫先生チックに
手塚治虫先生チックに
麻生財務大臣チックに
麻生財務大臣チックに
 ところで、僕が持参したパナマ帽、管理がわるかったせいか、かなり型崩れしていることを指摘された。大瀧店長、いたましげな顔をして僕のパナマ帽を眺めまわしてから、一見中世ヨーロッパの拷問器のようにも見える金属製の装置にパナマ帽をセットした。脇のハンドルをぐるぐる回すと、帽子をセットした半球型の容器の下から電熱器で温められた蒸気が立ち上ってきて、帽子を湿らせながら形を整えていく、という仕組みなのだ。
 ベタに〝伸張機″と呼ばれる用具らしいが、取材を終えるころにはわがパナマ帽も生気を取りもどした。この夏もこいつを頭にのせて散歩を楽しもう。いやしかし、ここでいろいろな帽子を眺めていたら、また新しいのがほしくなってしまった。
伸帳機の威力!
伸帳機の威力!

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