銀ぶら百年

百年目の「銀座通連合会」

Ginza×銀ぶら百年 Vol.22

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

百年目の「銀座通連合会」

2019.09.25

泉 麻人

全国各地の町に‶商店会″というのがあるだろうが、銀座にも「銀座(ぎんざ)(どおり)連合会(れんごうかい)」という組織がある。大正8年(1919)に発足(11月誕生という説が濃厚)したこの組織、商店会の元祖とか草分けと表現すると、いやウチのほうが先……と、小っちゃいレベルで主張する街も出てくるかもしれないけれど、まぁ‶日本の商店会の王様″なんていい方なら文句はないだろう。
西暦の1919年のほうに着目するとピンとくるだろうが、2019年のことしは発足百周年を迎える。それにちなんで、‶百年史″が編纂(へんさん)されるというので、第12代理事長の齋藤充さんと事務局長の竹沢えり子さんに会の歴史、エピソードなどをうかがった。
第12代理事長齋藤充氏と
第12代理事長齋藤充氏と
まず、何故(なにゆえ)大正8年という時期に会が立ちあがったのか……というと、直接的な要因は銀座通りの拡幅事業だった。
「初めての都市計画法が公布されて、行政レベルで銀座通りを整備しようということになったんですよ。車道を広げるのに伴って、明治時代からのガス灯を撤去して、それから柳をぬいてポプラに植えかえようという話がもちあがりまして……」
 つまり、勝手に銀座の街を改造されてはたまらないと、地元の商店主たちが立ちあがったのだ。ちなみに、大正の初めは‶銀ぶら″という風俗が話題になりはじめたころだから、そういう銀座の観光化というのも1つの契機になったのかもしれない。
 当初の会の名称は、京橋の京と新橋の新を合わせた「京新聯合会」といった。その中心となったと(おぼ)しき初代会長の森竹邦彦という人物は、6丁目(尾張町2丁目)で森竹商店というのを営んでいて、店の2階を連合会の寄り合いに使っていたという。
 森竹商店――大正時代の商店地図を眺めると、場所は当時の天賞堂の北隣、いまはGINZA SIXの一角になってしまっているところだ。地図に‶機械・金物″と業種が添えられているが、野口孝一氏の『明治の銀座職人話』に以下のような解説がある。
「小売りもしていたが、東京市営の水道敷設工事に使用する材料一般を()()い、水道局へ納入していた。当時は水道工事の材料屋とてなく、店こそ小さいが、(けた)はずれの(もう)けをあげ、数年たらずで彼は銀座でも有数の資産家、地所持ちとなった」
 なるほど、とくに後半の‶有数の資産家″のくだりを読むと、初代会長のポジションがしっくりくる。この森竹商店の場所、震災後の昭和6年の地図(大日本職業別明細図)ではもう森永キャンデーストアに替わっているから、資産家になって、あっさり商売はやめてしまったのかもしれない。
 ところで、先の道路改修に伴う‶柳″の件。結局、ポプラではなくイチョウに植えかえられて震災に遭い、消失。そんな街路樹のない昭和4年に『東京行進曲』のヒットによって、(ちまた)から‶柳待望″の声が高まっていく。昭和5年、「京新」から「銀座通連合会」と名を改めた商店会は柳並木の再生を提唱、東京朝日新聞の寄贈によって昭和7年に銀座の柳は復活する。
 柳の並木ばかりでなく、この当時から連合会では昭和15年の東京オリンピック(結局中止)を視野に電柱の撤去を唱えていた。そして、ちょっと意外に思ったのは、昭和初めの段階で路面電車(市電)を悪者扱いしていることだ。
「醜悪なる路面電車とその騒音、汚いバラック建築、くもの巣のような電柱と電線、そのために伸びられぬ可哀相な柳の木、道路におかれた自転車、統制のない看板、俗悪な地下道入口、庇の低い日除(ひよ)け等々」
 連合会が主催した‶銀座検察隊″なる調査隊のリポートに、当時(昭和11年)の銀座の改善すべき点が列挙されている。そうか、銀座の都電が‶風情ある景色″として語られるようになったのは、廃止(昭和42年12月)されてしばらく()ってからのことだったのだ。
 大正の震災、さらに昭和の戦災からの復興に連合会の力はおおいに生かされた。百年史の解説を読みながら、へーっと感心したのは、終戦直後に連合会が大倉土木組(大成建設)とともに練りあげたバラック建築のマニュアル。
「間口の高さ6メートルのモルタル造りの建物を建てる。中間に80センチのひさしを出し、下はウインドー、上は看板にする。看板にはローマ字で店名を書き、商いの内容を示す絵を添える。奥行き5間のうち表3間を店舗とし、裏2間を住居とする」
 すべてマニュアルどおりにうまくいったわけではないだろうが、こういうバラックの仮店舗段階で細かく街のデザインが決められていた……というあたりがさすが銀座だ。
「ローマ字で店名」なんてのは、やはり進駐軍への配慮もあったのだろうが、そんな占領下の時代を経て、いよいよ戦後の街並みが整ってくるのが昭和27、28年ごろ。昭和28年に制作された東宝映画『都会の横顔』(清水宏監督)は、池部良(ふん)する銀座のサンドイッチマンが迷い子の女の子を探して銀座通りを行ったり来たりする、という話で、エッフェル塔看板の出たコロンバンやペコちゃん人形がお目見えしたばかりの不二家……すっかり復興した銀座風景が楽しめる。タイトルバックに「銀座通連合会」のクレジットこそなかったが、会の援助がなければ、ロケが成立しないような作品だ。
 この映画の冒頭にも登場する銀座通りの都電は昭和42年の12月に廃止されて、それに伴う道路改修でいよいよ電柱は撤去されたが、再び柳は姿を消す。そして、このとき都電軌道に使われていた御影石の敷石が歩道の敷石として再利用されることになった。もっとも、都電時代の敷石も老朽化して大方は新しいものに入れ替えられて、5丁目のあたりにちょっと残っているだけだという。
「もう()り減ってデコボコなので、整えてもらうよう国道にお願いしているんです」
 齋藤理事長はおっしゃるけれど、都電ファンとしてはそれも惜しい気がする。古そうな敷石を探して、1度歩いておこう。
 銀座通りの都電が消えた翌年の昭和43年(1968)の10月、‶明治百年″にも合わせて第1回の「大銀座まつり」が催された。クレージーキャッツのファンだった僕は、『クレージーのぶちゃむくれ大発見』という映画のラストで、彼らがハヤりのミリタリールックでオープンカーに乗りこんで、祭りのパレードを盛りあげているシーンをよくおぼえている。その2年後にスタートした「歩行者天国」も銀座通りを象徴するイベントとなった。
 昭和の終わり、いわゆるバブルのころから銀座でもビルの高層化が求められるようになってくる。連合会と中央区との討議の末、平成10年(1998)に区条例として公布されたのが通称「銀座ルール」と呼ばれる建築規定。容積率などの細かい規定の説明は省くが、このとき、銀座通り沿いの新ビルの高さの上限が56メートル(地上11階まで)と定められた。
 寺田寅彦が「銀座アルプス」と称した、大正の震災後に建ったデパートをはじめとする当時の高層ビルの上限は100尺(約31メートル)だったから、20メートル余りは高くしてよくなったわけだが、このルールによって、当初Mビルが六本木並みの超高層にしたがっていた松坂屋跡の‶GINZA SIX″は、まあまあ良心的な高さに収まったのである。
 ところで、ここまで「銀座通連合会」が関連したおもだった歴史事象について書いてきたが、百年史に「全銀座会組織図」という系図が載っていて、これを見ると40くらいの〝地区会″が銀座には存在するのだ。まず「通り会」として、銀座通のほか、銀座すずらん通り、銀座あづま通り、銀座西五番街、銀座花椿通り……13もあって、「町会」として、銀座1丁目、2丁目……銀座西1丁目、銀座西2丁目……とこちらも15ほど。ちなみに、この「全銀座会」の組織の一端に当‶銀座オフィシャル″や‶銀座百店会″も含まれる。
 松屋銀座横の銀座三和ビル内の連合会事務所で取材を終えて銀座通りへ。そう、古い都電の敷石探しはともかく、昭和43年に戦後の柳が姿を消して以来、長らく中低木しか置かれてこなかった通りに昨年、久しぶりに本格的な街路樹の植えこみが行なわれた。
 樹木の名は桂(カツラ)。ハート型の葉っぱがオシャレな落葉広葉樹で、秋には黄に色づく。♬ 銀座のカツラ~なんて歌が親しまれるくらい定着してほしいものだ。
大きく育て、銀座通りのカツラ
大きく育て、銀座通りのカツラ