銀ぶら百年

思い出のオリンピック

Ginza×銀ぶら百年 Vol.02

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

思い出のオリンピック

2016.01.25

泉 麻人

 前回、銀座・伊東屋12階のカフェでエッグスベネディクトを食べているとき、かつてすぐ隣にあった洋食レストラン・オリンピックのことを思い出した。いまティファニーのビルになっているところにあったオリンピックは、僕の銀座のほんとうに初めのころの記憶に刻まれている。母に連れられて銀座のデパートなどに買い物に来たとき、ここか数寄屋橋の不二家かで、ごちそうを食べさせてもらった。オリンピックのメニューでとりわけ気に入っていたのは、マカロニグラタン。確か店の片隅に大きなオーブン(母は日本式に“天火(てんぴ)”と呼んでいた)があって、そこで焼きあげられたアツアツのグラタンが運ばれてくる。皿の端っこで手をヤケドしないよう気をつけながら、ハフハフ息を吹きかけて味わった焦げ皮のところの味が忘れられない。
 僕が初めて連れていってもらったのは幼稚園児のころだと思うから、昭和でいうと35年か36年……。以前CS放送でやっているのを録画した吉永小百合のデビューまもないころの映画『美しき抵抗』(昭和35年)の1シーンに、オリンピックとおぼしき店が登場する。吉永ではなく、彼女の姉役の香月美奈子がフィアンセの男と食事をする場面、南洋樹の鉢植えを置いた装飾といい、2階の窓越しに見える対面の明治屋といい、ほぼオリンピックと見てまちがいないだろう。残念ながら、別の角度のカットはないので、天火などを確認することはできないが、彼らはフォークを使ってステーキのようなものを食べている。うーん、ここでマカロニグラタンを食べてほしかった……。
 しかし、銀座がテーマの随筆を読むと、オリンピックのビーフステーキは評判料理だったようだ。たとえば、池部良さんのエッセイ集『江戸っ子の倅』のなかには「ビステキ」と題して、幼いころにおやじさんが家族一同引き連れて、オリンピックにビーフステーキを食べにいく話がある。ビフテキではなく、ビステキとカン違いしてウェイターに正される、おやじさんの様子がコミカルに描かれている。「昭和3年か4年……」の話と書かれているが、オリンピックの開店は昭和3年というから、まさにオープン早々の時期に池部さんは連れていってもらったのだ。そして、あの永井荷風の日記『断腸亭日乗』にも、昭和5年あたりからオリンピックで食事した旨が見受けられる。昭和7年3月25日の日記にユニークな店内観察描写がある。
「黄昏銀座於倫比克(オリンピク)洋食店に飰(はん)す。この店3、4年前開業してより今日に至るまで、連日食事の時刻には空席なきほどの盛況なり。主人は多年米国沙市にて飲食店を営みゐたるものの由。客は男女事務員店員学生等にて、東京の言葉をつかふ者は甚(はなはだ)少く、また行儀作法を知るもの殆なし。我国文化の程度はこの店の客の食事する様を見てもその一斑を窺ふに足るべし」
 上から目線な感じが荷風らしいが、とくにこの昭和7年から8年ごろはハマっていたようで、しばしば店の名が登場する。ただし、具体的な料理名の表記はあまりない。
 米国沙市……と漢字があてられているが、アメリカのシアトルで修業をした3人の青年によって、店は立ちあげられたという。オリンピックの店名、僕はてっきりスポーツのオリンピックがネタ元(昭和3年はアムステルダム大会)と思っていたのだが、正解はシアトルの山の名前らしい。
「いつもオリンピアという山を見ては、故郷を偲び、困苦に耐えることを誓ったことから、新しい店の名をオリンピックとしました」
「銀座百点」の昭和45年5月号に当時の関係者の取材記事がある。ちなみに、この記事に添えられた店内写真は、先の映画のころの装飾とほぼ同じだ。荷風がひいきにしていた戦前の店は2階建てだったが、僕がなじんだ戦後は8階建てのビルになって、「1階がフルーツ・パーラー、2階がレストラン、3階が宴会場」とこの45年の紹介記事にある。
「銀座百点」昭和45年5月号
「銀座百点」昭和45年5月号
 「銀座百点」のバック・ナンバー、残念ながら僕の幼年期の昭和30年代の号にオリンピックの関連記事は見つからなかったが、ちょっとあとの昭和53年の店紹介に興味深いメニューを発見した。お薦め料理として“オリエンタル・ライス”というのが挙げられている。
「オリジナルのオリエンタル・ライス、炒めご飯に特別の具をのせ、ホワイトソースをかけてオーブンに入れるのですが、ドリアとは一味違ったものです」
 オリエンタル・ライス……なにか聞きおぼえがある。さらに、昭和59年の記事にオリエンタル・ライスを受けて、「創業のころ工夫された料理も、いまだ健在で、人気を博している」と解説されているから、このメニュー、僕の幼年期に存在していたと見ていいだろう。ハフハフしながら焦げ皮を味わったのは、もしやコレかもしれない。写真が載っていないのが悔やまれる。
「銀座百点」昭和53年9月号
「銀座百点」昭和53年9月号
 ところで、昭和59年(1984年)というと、僕はもう社会人。築地の会社に勤めていたころにランチを食べた記憶があるが、やがてサンリオのギャラリーに変わった。そのオープンが89年夏というから、つまり、ほぼ昭和の終わりまで営業していた、と推測できる。
 そして、あえて後回しにしたのだが、オリンピックの思い出のなかに、ミルキーに似た乳菓の記憶がある。まだ少年マンガ誌を読み始める以前、「こばと」という幼児向け月刊誌を取ってもらっていた(当時、定期購読することを“取る”とよくいった)。そこに『こりすのぽっこちゃん』というリスの女のコが活躍する人気マンガが載っていて、熱中していた。その「ぽっこちゃん」キャラのミルクキャンディがオリンピックから発売されていたのだ。マンガの横に広告が載っていたのをおぼえているから、オリンピックは食事というより、このお菓子目当てに連れていってもらったのかもしれない。確か、銀座通りの店前にできた“銀座発祥の碑”の脇で、菓子を手にした女の子がポーズを取っているような広告だったはずだ。
 さすがに商品名までは忘れてしまっていたが、先日訪ねた早稲田の「現代マンガ図書館」に入っていた「こばと幼稚園」(「こばと」を改名・集英社)昭和38年10月号に懸案の広告を見つけた。
「ママ リスミーかってきた」とキャッチコピーがあって、女の子が自転車のカゴに菓子を載せて走る写真が載っている。写真は僕の記憶と違うが、年代がちょっとあとのせいだろう。<オリンピック製菓株式会社>と記して、銀座2丁目の店の住所がある。そうか、リスミーといったのか。それにしても、ヒモつきの赤箱のデザインからしてミルキーそっくりだ。同じ銀座(不二家)で……あの時代は奔放だったんですねぇ。
 リスミーはともかく、2020年を前に、オリンピックのレストラン、どこか復活してくれないかなぁ。
「こばと幼稚園」昭和38年10月号(明治大学現代マンガ図書館所蔵)
「こばと幼稚園」昭和38年10月号(明治大学現代マンガ図書館所蔵)
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泉 麻人   いずみ あさと

1956(昭和31)年、東京生まれ
慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」編集のかたわら、「スタジオ・ボイス」「ポパイ」などに寄稿し、 1984年よりフリーのコラムニスト・作家として活動し、『東京23区物語』など東京をテーマにした作品を多数発表。近刊は『還暦シェアハウス』。

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