銀ぶら百年

1丁目の銀座アパート

Ginza×銀ぶら百年 Vol.03

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

1丁目の銀座アパート

2016.02.25

泉 麻人

 伊東屋、そしてその隣に昔あった洋食のオリンピック、と銀座も北方の話が続いているけれど、界隈を取材しているとき、1・2丁目あたりの裏道にはまだけっこう古い建物が残っているのだな……と感心した。銀座柳通りの角っこの「銀座メゾン アンリ・シャルパンティエ」が入っているヨネイビルや昭和通り沿いの竹田ビル、この辺は昭和初期建築のビルだが、小路から昭和通りに出た所には渋い木造の刀剣屋もある。さらに、新富町のほうにかけても古物件が割合とよく残っているが、散歩していていつもふらっと入っていきたくなるのが1丁目の三原通りに建つ奥野ビル。黄土色の外壁と各室のベランダに並んだ植物の緑の配色がとてもいい。いまはアンティークの店や画廊がぎっしり入っているけれど、かつてはその名もズバリ「銀座アパートメント」という集合住宅だったらしい。
奥野ビル全景
奥野ビル全景
 僕が初めてここを訪ねたのは、20年くらい前に知り合いのイラストレーターの個展を覗いたときだったが、当時はまだ画廊の数も少なかった。いまや各階の狭い通路づたいに絵画やオブジェを飾った小部屋が並んでいて、なんだか美大の文化祭にやってきたような気分になる。そして、この建物に色をつけているのが、古典的なエレベーター。扉の上に取りつけられた、半円の時計型のインジケーター(階数表示器)もクラシックだし、なにより二重の扉を手で開け閉めしなくてはならない。日本橋の髙島屋や三越にもかなりクラシックなエレベーターが残っているが、こういう手動扉というのは、いまどきちょっとお目にかかれない。
エレベーターのインジケーター(階数表示器)
エレベーターのインジケーター(階数表示器)
 これまでも何度かふらっと入ったことはあったが、今回はアポをとってオーナーの奥野亜男(つぐお)氏に建物の歴史をうかがうことになった。
 1階のエレベーターホールのすぐ横に、奥野氏が営む奥野商会の事務所がある。まず、扉脇の受付の小窓からして古めかしい。現在この小窓は機能していないようだが、昔は窓の向こうに受付嬢がすました顔で座っていたのかもしれない。そして、導かれた応接ソファの横にドカンと置かれた黒金庫も凄かった。戦前式の右書きで<東京山田金庫店>と記した商標がついている。
「この建物ができた昭和7年から先代が使っていたものですよ」
 そもそも奥野商会は亜男さんの祖父にあたる奥野治助氏が明治の30年代、蒸気機関車の車軸部品製造をここで始めたのが原点。新橋が鉄道の玄関口だった時代、この種の仕事もいわゆる唐物屋(舶来洋品店)と並ぶ、銀座のトレンド業といっていいのだろう。しかし、その工場兼住居は大正12年の関東大震災で焼失、奥野商会は鉄道の車両工場に近い大井町へ移る。そして銀座の跡地には、震災後の住宅難の状況を鑑みて鉄筋コンクリート7階建のアパートメントが建設された。
 現在、最上階の7階の造りは増築によってちょっと変わってしまったが、当初は屋上に突き出たペントハウス型で、ここに共同洗濯室(屋外に物干し場)と談話室がおかれ、また地下にボイラー室を備えた共同浴場が存在した。階段を下った地下も、いまは画廊に使われているが、いわれてみるとどことなく温泉旅館の風呂場の入り口のような気配がある。
 こういう談話室や浴場を備えたアパートとして、ふと原宿や代官山など都内各所にあった同潤会アパートを連想した。建物のつくりも似ている……と思ったら、同じ建築家(川元良一)の設計らしい。
 ところで、どんな人たちが住んだのだろう? 昭和の初めというと、当時銀座でブームのピークを迎えていたカフェの女給、を思い浮かべる。永井荷風みたいな御贔屓のパトロンに住まわせてもらっていた女給さんも、なかにはいたのかもしれない。
「有名人で知られているのは『東京行進曲』を歌った佐藤千夜子。それから、その作詞者の西條八十も住んでいたと……」
“銀座の柳”の詞でおなじみの『東京行進曲』は昭和4年の映画主題歌として大ヒットしたもの。まさに打ってつけの住人ともいえる。他にも、映画監督の五所平之助、今和次郎と組んで銀座の風俗調査にも取り組んだ美術家の吉田謙吉らの名が資料に見られる。居住時期はハッキリしないけれど、後年の原宿セントラルアパート的な“ナウな文化人の溜り場”だったようなイメージが浮かぶ。
 そして、世間に名を馳せた有名人というわけではないけれど、開館当初から住居の一角で<スダ美容室>という美容院を開いていた須田さん、という女性がいた。戦時を超えて、なんと2009年に100歳で亡くなられるまで3階の306号室で1人暮らしていた。
「昭和30年代ごろからは、銀座アパートの名義を取って事務所を中心に貸し出すようになったので、須田さんが最後の住人なんですよ」
 往時の雰囲気を残す306号室を保存管理するプロジェクトも進んでいるという。そう、奥野さんからぽろっとうかがった話では、東條英機の夫人がスダ美容室の顧客だったらしい。
 東條英機夫人がどんな感じの人だったのか……まったくわからないけれど、戦争の時代が思い浮かんでくる。ちなみに、銀座は空襲でかなり焼かれたが、このビルは幸いあまり被害がなかったという。しかし、すぐ目の前を流れていた三十間堀川は、戦災のガレキの処分場となって、いち早く埋められたのだ。そして、やがて川岸には露天のパチンコ屋がずらりと並んで、昭和20年代後半のパチンコブームの発端となった。
「京橋、銀座1、2丁目の露天商200余人は『銀一ストア』、残りの露天商540人は『銀座館』と分れた。『銀一ストア』は『東洋一のパチンコ屋』と1階にズラリ自称1200台(実は600台)のパチンコ台を並べて三十間堀に客寄せして日に平均20万円の売り上げだ」(昭和27年11月11日 朝日新聞東京版)
 新聞記事をもとに当時の住宅地図を見ると、ちょうどこの奥野ビルの対面に、横長のパチンコ屋が表示されている。
 さて、館内に画廊がぽつぽつと目につき始めたのは90年代ごろから。古い店舗の再利用が若い人たちの間で見直され始めた時代だ。表参道の同潤会アパートの晩年にもファッションの店がよく入っていたが、画廊というのはやはり銀座らしい。何軒かの店の人に尋ねたところ、銀座裏のクラシックな建物のシチュエーションが気に入って入居した、という声が多かった。ここでしか個展を開かない、という作家さんもいた。
 古建築と相性のいいアンティークの店も近年増えている。そして、ビル1階の右側に<UNION WORKS>というトラディショナルな看板を出しているのは、修理をメインに掲げた靴屋さん。20年前、渋谷の桜丘で立ちあがったというこの店、銀座に出店して4年になる。小ぢんまりとした店内には、イギリス趣味のオーナーが集めたセンスのいい靴が陳列されている。
 実は、長年愛用してきたオールデンのショートブーツのソールがかなり傷んでいる。オールデンはアメリカの老舗メーカー。ブリティッシュトラッドの店のラインとはちょっとズレるけれど、大切に履き続けたい靴はやはりこういう歴史を感じさせる環境の店で直したい。僕は履いてきたブーツの靴底を見せて、新しいのと張り替えてもらうことを決断した。
ユニオンワークスで修理した靴
ユニオンワークスで修理した靴
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泉 麻人   いずみ あさと

1956(昭和31)年、東京生まれ
慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」編集のかたわら、「スタジオ・ボイス」「ポパイ」などに寄稿し、 1984年よりフリーのコラムニスト・作家として活動し、『東京23区物語』など東京をテーマにした作品を多数発表。近刊は『還暦シェアハウス』。

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