銀ぶら百年

1971年夏の山野楽器

Ginza×銀ぶら百年 Vol.04

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

1971年夏の山野楽器

2016.03.25

泉 麻人

 先月、銀座1丁目の奥野ビルを取りあげた際、当初の銀座アパートメント時代の住人に西條八十や佐藤千夜子もいた……というようなことを書いた。とはいえ伝記本の好著『西條八十』(筒井清忠・著 中公文庫)にもその件は記述されていなかったから、ほんの短期間だったのかもしれないが、両者は『東京行進曲』の作詞者と歌手だから、曲がヒットした昭和初期の時代が想像される。
 おなじみの「昔恋しい銀座の柳」のフレーズは関東大震災で焼失した柳をしのんだもので、映画化に合わせてレコードが発売されたのは昭和4年。ヒットにちなんで銀座通りに柳並木が再生された、という逸話もある。
 西條は当時、『当世銀座節』『銀座の柳』(柳の復活にちなんだ)など銀座が舞台の歌をいくつか手がけたが、そこで浮かんできたのが銀座のレコード店。『東京行進曲』がヒットしているころ、昭和6年発行の『大日本職業別明細図・京橋区』という、銀座の店舗を記した地図を広げると、1丁目のほうから、ツバメレコード、コロンビヤチクオンキ商会……と、レコードがありそうな店が何軒か見られるけれど、4丁目のいまの場所に山野楽器も存在している。山野は僕も中学生のころからひいきにしている店。ネットでHPの会社概要の年表を一見すると、明治25年にピアノ・オルガン製造の「松本楽器」として立ちあがり、「山野楽器店」の名で創業したのは大正4年。そして、興味深いのは昭和3年の所に「日本ビクターの売り捌き元(ジョバー)となる」と記されている。同じ昭和3年発売の『当世銀座節』、翌年の『東京行進曲』、昭和7年の『銀座の柳』、これらの発売元はすべてビクターレコードだから、山野で大々的なキャンペーンが繰り広げられたような想像が浮かぶ。もしや、佐藤千夜子や西條八十も、あるいは作曲の中山晋平も、店頭イベントなんかに顔を出したのではないだろうか?
 なんてあたりのことを山野楽器の関係者に取材したい――というのが今回のテーマの発端だったのだが、昭和20年の空襲の折に以前の資料はすべて焼失、時代も流れて昭和初期の事情を知る人もいないという。
 うーん、残念だが先にも書いたとおり、僕も中学生のころから山野にはしばしば通うようになった。ここはちょっと切り口を変えて、そんな僕の思い出が詰まった時代(おもに1970年代前半)の話を関係者からうかがうことにしよう。
 4丁目の角の和光、銀座木村家、山野楽器、ミキモト、というこの並びはもう昭和初めの地図から変わらない。最近のJポップスとわが青春時代のニューミュージック系のCDが張り合うように並ぶ1階の売り場を通りぬけて、裏手のエレベーターで最上階8階の会議室へ向かう。今回取材に立ち会ってくださるのは副社長の池田進氏と長らくレコード売り場の係などをされていた元従業員の石井芳治氏。池田副社長は1966年の入社、石井氏は1956年、僕の生まれた年に入社したという現在82歳の大ベテラン。
 さて、この店は楽器も有名だが、僕にとっての山野は洋楽のレコード。中学の時代、ラジオの深夜放送で聴いてグッときたポップス、さらにはちょっとマニアックな友人から教えてもらったフォークロックバンドの輸入盤LPなんかを物色しにやってきたのだ。
唇の壁面の外観
唇の壁面の外観
 山野が輸入盤を積極的に仕入れていたことは「銀座百点」(66年8月号)にも記述されている。
「山野楽器店は、レコードの輸入盤にも力を入れています。わたしは輸入盤にかぎるというファンも多いことでしょうが、アメリカものは注文してから2ヵ月、ヨーロッパものは3ヵ月から半年かかるそうです」
 もちろん、まだ「タワーレコード」のような店は日本にない時代。ピチッとビニール密封されたLPの狭い口の所に爪の先やハサミでちょろっと穴を空け、ピピーッと破くときの感触。それとツゥンと鼻につく輸入盤独特のニオイを嗅いだ瞬間、ほのかなステータスを感じたものだった。
「わたしが入ったころ、洋楽はプレスリーが大ブームでね。それからハワイアン、アメリカンポップス、フレンチポップスがあってビートルズ……」と石井氏。
 先の66年8月の「銀座百点」の解説も、時節柄こんな書き出しになっている。
「あっというまに、ビートルズ台風が過ぎ去ってしまいましたが、ビートルズのレコードは、彼らが去ったあとのほうが、余計に売れているそうです」
 その66年は池田副社長が入社した年で、翌67年は山野が4階(一部は5階)建ての新ビルを竣工した年である。オープンしたての写真を見せてもらったが、僕が初めて行った山野はこの建物に違いない。しかし、外壁に奇妙な唇のコラージュアートが掲げられている。
「これはオープンのキャンペーンで飾ったものでして、確か唇の主はジュディ・オングだったと聞いています」
 66年のジュディ・オングというと、少女タレントとして『グーチョキパー』なんていうドラマや歌番組に顔を出し始めたころだ。ビートルズ来日のあと、この年の後半あたりからGS(グループサウンズ)のブームが始まる。ジュディもGS系の番組によく出ていたけれど、そんなGSグループのパネルが張り出された店内写真もある。ザ・ワイルドワンズ、ザ・テンプターズ、ジ・エドワーズ、ザ・スパイダース……。コレ、ブーム盛りの68年ころのものだろうか。そうだ、山野のすぐ先の不二越ビル屋上にあった森永の地球儀型広告塔――森永チョコレートと記した輪っかの上にザ・テンプターズのメンバーが並んで歌うCMがあった。
グループサウンズ時代の店内
グループサウンズ時代の店内
 さて、僕が中学の友人連中と山野へ繰り出すようになったのは、GS人気が衰える69年ごろ。通学していた三田の慶應義塾中等部には下町方面(人形町や浅草)の子がけっこういて、新宿方面に帰る僕は彼らにムリヤリ都営地下鉄に乗せられる格好で、銀座へ連れていかれることが多かった。
 山野で物色するレコードは、先述したようなフォークやロックの洋楽LP――ニール・ヤングの『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』や<Chicago>と定番のロゴが入ったシカゴの何枚かのアルバムなどが思い出されるけれど、店内の光景が強く印象に刻まれているのは、とある歌謡曲のキャンペーン。先の店内写真を見てのとおり、1階フロアに歌謡曲や洋楽を含めたポピュラー系のレコードが陳列されていたのだが、入ってすぐ左手の一角でときおり新人歌手のキャンペーンが催されていた。
 僕らサッカー部の4人組がキャンペーンに出くわしたのは71年、中3の夏。確か夏休みの練習帰りで、銀座通りは歩行者天国をやっていたはずだ。立ち寄った山野でキャンペーンをやっていたのは中島淳子という新人歌手。僕らはレコードも買わなかったのに、『小さな恋』という曲のサイン入りのポスターをもらって、彼女と握手をした記憶がある。
 ところで、この日の僕らの第1の目的は、山野のちょうど向かい側、銀座三越の銀座通り側の一角にオープンしたばかりのマクドナルド(日本1号店)の探訪、ではなかったかと思われる。調べてみると、マクドナルドの開店は7月20日、中島淳子のデビュー曲『小さな恋』の発売は8月1日、時期的につじつまが合う。
 僕らはマンガの「ポパイ」でウィンピーおじさんが歩きながら食べていたようなハンバーガーを買って、マックシェイクの早飲み競争をしながら歩行者天国の銀座通りを歩いた。そんな15歳の僕の銀ぶらにつきあってくれたのかもしれないポスターの中島淳子は、やがて夏木マリと改名して、山野の歌謡曲コーナーの一等席を飾る大スターになった。
「銀座百点」誌面では、毎月の「銀ぶら百年」取材時に泉さんが買った・見つけたものについてのミニコラムを連載中です。
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詳細はウェブサイトまで http://www.hyakuten.or.jp/

泉 麻人   いずみ あさと

1956(昭和31)年、東京生まれ
慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」編集のかたわら、「スタジオ・ボイス」「ポパイ」などに寄稿し、 1984年よりフリーのコラムニスト・作家として活動し、『東京23区物語』など東京をテーマにした作品を多数発表。近刊は『還暦シェアハウス』。

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