銀ぶら百年

幻の展望ビル・天下堂のナゾ

Ginza×銀ぶら百年 Vol.07

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

幻の展望ビル・天下堂のナゾ

2016.06.24

泉 麻人

 銀ぶらという言葉が生まれたのは大正時代の初め、といわれているが、それ以前から趣味としての散歩を実践、名随筆を残した作家に永井荷風がいる。なかでも「三田文学」の連載随筆に寄稿した「銀座界隈」(明治44年7月)には、銀座にカフェーやビヤホールなどの“トレンドスポット”が続々出現し始めたころの様子が活写されている。この一篇を読んでいて、僕がとりわけ興味をもったのが、いまの8丁目の銀座通りぞいに存在した「天下堂」という建物。荷風はここを銀座歩きの“見晴台”に利用していたようだ。その一節を紹介しよう。
「自分は折々天下堂の三階の屋根裏に上って、都会の眺望を楽しむ。山崎洋服店の裁縫師でもなく、天賞堂の店員でもない吾々が、銀座界隈の鳥瞰図を楽まうとすれば、この天下堂の梯子段を上るのが一番軽便な手段である。茲(ここ)まで高く上って見ると、東京の市街も下に居て見るほどに汚らしくはない。十月頃の日本晴れの空の下にでも、一望尽る処なき瓦屋根の海を見れば、矢鱈に突立ってゐる霜柱の丸太の浅間(あさま)しさに呆れながら、兎に角東京は大きな都会であるといふ事を感じ得る」
 以降、霞ヶ関、日比谷、芝公園、さらに品川湾あたりまでの遠望が語られたあと、間近の景色がリアルに解説される。
「遠くの眺望から眼を転じて、直ぐ真下の街を見下すと、銀座の表通りと並行して、幾筋かの裏町は高さの揃った屋根と屋根との間を真直に貫き走ってゐる。どの家にも必ず付いてゐる物干台が、小さな菓子折でも並べた様に見え、干してある赤い布や並べた鉢物の緑りが、光線の軟な薄曇の昼過ぎなどには、汚れた屋根と壁との間に驚くほど鮮かな色彩を輝かす。物干台から家の中に這入るべき窓の障子が開いてゐる折には、自分は自由に二階の座敷では人が何をしてゐるかを見透す。女が肩肌抜ぎ化粧をしてゐる様やら、狭い勝手口の溝板の上で行水を使ってゐるさままでを、すっかり見下して仕舞ふ事がある」
 と、ある種“ノゾキ”まがいに屋根裏からの外景観察にハマッている荷風の姿を想像するとおかしい。
 さて、その天下堂とはどういう物件なのか? 調べてみると、新橋から銀座方面を一望した明治末期の絵ハガキにその姿が確認できる。ひょうたん型の時計塔が印象的な博品館の建物の7、8軒ばかり向こう、レンガ建築時代の資生堂の手前に目につく白亜のビルがある。外壁に「天下堂」とあるのと、「デパートメントストーア」と記されているのと、時代によって多少改築されたようだが、お日さまみたいなオブジェがあったり、屋上に塔楼風のものが認められたり、なかなか興味をそそる建物だ。<デパートメント>なんてフレーズを看板に謳(うた)った物件としてもかなり早いほうなのではないだろうか……。
新橋から見た天下堂-1
新橋から見た天下堂-1
新橋から見た天下堂-2
新橋から見た天下堂-2
 勧工場の1つということはわかったが、博品館のように歴史解説はあまり見あたらない。そこで、前回取材でお世話になったギンザのサヱグサの文化事業室で催される研究会(銀座文化史学会)に寄せてもらったところ、いくつかの事実関係が判明した。まず、その会の会員でもある野口孝一氏が著した『明治の銀座職人話』(青蛙房)という本に、銀座で江戸から続く葛籠(つづら)屋(秋田屋)の老職人の昔話を聞き書きする格好で「天下堂」のことが記述されている。
「三階建の、勧工場とデパートをごっちゃにしたような、ちょいと高級な家庭用品、洋装の付属品とか、下着類を各階で販売する店だった。間口は六間くらい。店全体が入口と云った感じで、通路の左右に商品を並べていた。開業当時は珍らしさと好奇心から買物客が押し掛け、繁昌しているようだったが、数年のあいだに経営者が転々と変わったようだ」
 開業当時とは、明治42年11月(前月の10月に小川町店がまず開業)のことで、およそ10年(足らず)あとの大正7年11月に閉業、10万円で共同火災保険会社に売却されたという。なるほど、資料が乏しいのは営業期間が短かったせいもあるのだろう。
 さらに、この資料室に収蔵された絵ハガキには、先の博品館側からの遠景に加えて、天下堂の正面をとらえた貴重なものが1点あった。これを見ると、ファサードにも“お日さま”を象った飾り窓が設えられ、外壁にも彫刻らしきものが施されている。「三階建」とはいえ、隣の建物と比べると優に5階レベルの寸法はある。
天下堂正面入口
天下堂正面入口
 そして、ここで入手した会の機関誌「銀座文化研究」第5号の表紙――正確には冒頭ページの三枝進氏による表紙資料解説を読んで目が点になった。
「表紙の俯瞰写真は明治末期の銀座通り竹川町(現在の銀座七丁目)附近を撮ったもので、絵葉書『東京名所』シリーズの一枚である。隣の出雲町に当時新築開業した天下堂の高層建物(五階建)の上から撮影したものらしい。」
 こちらには“五階建”とあるから、途中で増築されたのかもしれないが、表紙の写真を見ると、ふと屋根裏の荷風の視線が重なる。表通りゆえ“物干台”や“行水”シーンは目につかないが、確かに屋根裏に上りたくなるようないい眺めである。ちなみに通りの右側、白いビルの外壁の文字に「山葉オルガン ピアノ」と読みとれるから、これはいまのヤマハビルの前身だろう。
 この解説文に『唐物屋とその世相』(伊藤三千尾・編)、『東都新繁昌記』(山口孤剣・著)の2点に描かれた天下堂に関する記述が引用されているが、とくに後者の一節は興味深い。
「天賞堂のイルミネーションと、天下堂の高い屋根に聳え立った大帽子、服部の大時計は銀座を装飾すべき、重要の部分である。(中略)天下第一の大安賣店と新聞に大々的廣告をし、店内で活動寫眞をうつして見せた天下堂は実に奇抜な遣口であった。」
 この『東都新繁昌記』の発刊は大正7年、天下堂がつぶれた年でもある。ここに“新聞広告”と記されているのが気になって、例のごとく国会図書館に新聞縮刷版を調べにいったところ、東京朝日新聞の明治42年10月から12月にかけての紙面に何点かの広告を見つけた。
 まずは「天下座」という活動写真館を隣接させた神田小川町の店の広告。
<世上の流行に後(おく)れぬ諸君は天下堂と天下座に来られよ>なんてコピーのもと「天下堂は実際品物が安くておまけに御愛嬌の為め天下堂にて金三圓以上御買物の御方には天下座の珍らしき活動寫眞を御覧に入れます」なんて書かれているから、つまり販売促進に映画を使ったってことなのだ。ちなみに、昔の面影はまるでないけれど、小川町交差点の所に天下堂ビルという後継物件がいまも存在する。
 そして、11月27日の紙面に<新橋際 天下堂開館>の広告を発見した。この時代の市電停留所は新橋そのものが架かる博品館の前あたりが「新橋」だから、これが銀座(出雲町)の店と見てまちがいないだろう。11月27日は土曜日だから、歳末シーズンの週末に向けてオープンしたと察せられる。
「天下堂の特色は高等の洋品を驚く程安く賣るのでありますよ」なんて、くだけた調子の文句に続けて、商品が羅列されている。
 ニューハッション帽子、新形婦人肩掛、毛布、馬車掛、膝掛、メリヤス、手袋、靴下、ヅボンツリ、香水、石ケン、信玄袋……。
 シルクハット型の帽子がマークにも使われているが、この当時は紳士向けの帽子がブームを迎えていたころで<流行の帽子は大徳商店>と謳った、すぐ並びの帽子屋・大徳の囲み広告も新聞によく載っている。
 広告はこんなあおり文句で締めくくられる。「天下無類の勉強 行くべし行くべし 行かずんばあるべからず 早く行くべし」
 早く行くべし――せかしていたとおり、あっという間に銀座から消えてしまった……。
ギンザのサヱグサ文化事業室での泉さん
ギンザのサヱグサ文化事業室での泉さん
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