銀ぶら百年

月光荘とメザシの思い出

Ginza×銀ぶら百年 Vol.11

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

月光荘とメザシの思い出

2016.10.25

泉 麻人

 先月、この取材で泰明小学校を訪れたとき、画材屋の「月光荘」のことを思い出した。中学生の時代の美術の授業で、ここのスケッチブックや油絵の具を使っていたのだ。現在「月光荘」は8丁目の花椿通りで営業しているが、当時の店は泰明小のすぐ近くにあった。先日久しぶりに中学時代のクラス会が催されたこともあって、いっそう月光荘のことが懐かしくなった。
 以前にも記したかと思うが、僕が通っていた中学校は慶應義塾付属の中等部。月光荘の画材用具とともに思い出されてくるのは、美術を担当されていた加藤陽(よう)先生のことだ。まぁだいたいどこの学校でも、美術の先生というのはちょっと変わり者なのかもしれないが、陽先生も一般教科の先生とは空気感の違う、奔放な芸術家のムードが漂っていた。小太り気味の体躯(たいく)に伸びちらかしたような長髪、太い黒縁の眼鏡をかけて、ヒジがツンツルテンになったコール天のジャケットをいつも羽織っていた……と、書いたところで卒業アルバムの写真を確認してみると、さすがにこれは後に残るアルバムということもあってか、きちんとネクタイ締めてスーツを着用されている。
 そして、この陽先生のエピソードでまず思い浮かんでくるのは、中学入学以前の入試。二次試験で受けた美術の実技は印象深い。教室に入るなり、口に藁ヒモが結ばれたメザシが各人に配られて、これを確か太いエンピツでスケッチさせられたのだ。スマートなイメージを抱いていた慶應の中学の試験で、生臭いメザシをスケッチした時間は陽先生の姿とともに脳裡(のうり)に強く刻みこまれた。
 そんな恩師との関係も確かめるべく、8丁目の月光荘画材店へと向かった。花椿通りと金春通りの交差点角から2軒目、クラシックなレンガのファサードが目を引く店内は1階に絵の具やキャンバス、スケッチブック……画材がぎっしりと陳列され、階段を下りた地階にはちょっとしたサロンと画廊スペースが置かれている。
 なんといっても懐かしいのは、青、赤、黄緑、ピンク……などの表紙をつけたスケッチブック。サイズはさまざまだが、わが中学で使っていたのはおそらく「5F」(36×27センチ)のサイズで、男子は青、女子は赤の表紙のものだった。慶應カラーに合わせたのだろうが、青の色合いがいまのものよりもう少し、濃い紺色に近かったはずだ。
 郷愁にふけりつつ商品を眺めていると、やがてオーナーの日比ななせさんがやってこられた。店の二代目に当たる彼女は、僕より十年ほど上の世代というが実に若々しい。そして、同じ中等部(さらに下の幼稚舎から)出身とうかがって、なるほど……と思った。彼女も加藤陽先生に美術を習ったようだが、それ以前から創業者である父親と先生は親交があったらしい。
玄関横の少女のモデルはななせさん
玄関横の少女のモデルはななせさん
「慶應で使うスケッチブックは、ホルンのマークの所が校章のペンだったでしょ?」
 そうだ! ななせさんにいわれて思い出した。当時、足りなくなった絵の具などを買い足しに何度か訪れた店は、泰明小のフランス門向かいの横道を入った数軒目にあり、それ以前、戦後の昭和23年に銀座へ進出したばかりのころは、みゆき通りに面した所に建っていた(その後、リッカー会館が建った一角)。
「そもそも、大正時代の最初のお店は新宿にあったんですよ。東口の中村屋の近く……」
 店の沿革についてはホームページにもかなり詳しく記録されているけれど、創業者の橋本兵蔵は18歳のときに富山から上京、ひょんなきっかけで与謝野鉄幹・晶子夫妻と知り合って、画家たちとの交流も生まれ、画材屋を志すようになった。
「月光荘」の名は、鉄幹がヴェルレーヌの詩「月光と人」にあやかって命名、おなじみのホルンのマーク(通称・友を呼ぶホルン)も与謝野夫妻周辺の文化人の面々(小山内薫や島崎藤村……)らが、あーだこーだいいながら、共同で考案したものだという。大正6年、兵蔵23歳のときに開店した新宿の店は、なんと藤田嗣治が設計を監修、写真を見せてもらったが、おフランスな感じでカッコイイ。長身のフランス人女性をわざわざ店員に仕込んでいたという。
パリジェンヌの店員がいた旧店舗
パリジェンヌの店員がいた旧店舗
 と、こういう経緯を眺めても、兵蔵が人に愛されるような人物だったということがよくわかる。後年も「月光荘のオヤジ」「オジサン」のニックネームで親しまれ、とりわけ売れない貧乏画家に向ける眼差しはやさしかった。ホームページにこんな伝説が紹介されている。
「今では当たり前となったレジも当時はなく、昔の八百屋さんや魚屋さんにあったようなつり銭カゴが天井から吊るされていました。お客様は自分でそこに代金を入れ、つり銭を取って勘定をするというやり方でした。若く貧しい画家が、多くつり銭を持ち帰ることもあったようですが、兵蔵はそういったことには目をつむっていました」
 さすがにいま、こういった“ザル勘定”は受け継がれていないが、たとえば商品に包装がいっさい施されない。包装紙に要る金を商品に還元、少しでも画材を安く提供しよう……という姿勢などは、兵蔵のポリシーの流れをくむものといえるだろう。
 店は、日比家に嫁いだ娘のななせさんに継承され、さらにその息子・三代目の日比康造さんが現在「月光荘」のトータルプロデューサー的な立場にある。トータル……と表現したのは、画材店の本拠に加えて、アトリエ、カフェなどの新しい試みの店舗を同じ8丁目のブロックに増やしているからだ(一帯を“コンパルエイト”と称している)。
 康造さんは僕より20年ほど下の世代。スタイリッシュにデニムを着こなした姿は、トラッドな老舗の若旦那のファッションとはまた一味違う艶がある。彼に導かれて、金春通りを少し新橋寄りに歩いた所の「月光荘アトリエ・エムゾ」へ立ち寄った。ビル4階のこのスペース、低いテーブルに絵の具や筆、パレット、画用紙がごちゃっと並べられ、ちょっとした“お絵かき”が楽しめるしくみになっている。イスもあえて幼児向けの小さなやつが配置されて、幼稚園みたいな楽しいムードが演出されている。
「とくにお子さま向けってわけではなく、オトナにも気軽にお絵かきを楽しんでもらいたいと……。会社帰りのOLさんなんかも、よくこられますよ」
 ちなみに、ただ描くだけでもいいが、自らの作品をTシャツにプリントしたり、額装してもらうこともできる。僕はここで、“思い出のメザシ”描きにしばし熱中した。
恩師に捧げる絵を描く泉さん
恩師に捧げる絵を描く泉さん
 そして、もう一軒はこのビルの西裏のあたり。見番通りに建つ、かなり年季の入ったビルの階段を康造さん、ワシワシと上っていった。
「エレベーターがないんですよ、ココ」
 8丁目らしい小さなクラブ(ママさんのいる呑み屋)の看板が出た階を1つ2つ3つ……と上っていくと、最上の5階に「月のはなれ」と名づけられた月光荘のサロンが置かれている。ほの暗い通路の先に忽然と中庭が現われ、その向こうはテーブルやイス、棚に酒瓶が並ぶバーふうのスペース。まさに、隠れ家といった雰囲気。もちろん、ところどころに素敵な絵画や彫刻が飾られ、アンティーク主体のイスやテーブルも凝っている。
月のはなれのテラスの席で
月のはなれのテラスの席で
「築50年くらいの建物なんですけどね、もともと屋根があった所を取っ払って、こういう露天の中庭スペースをつくったんですよ」
 なるほど、よく見ると外壁を削り取った跡などが確認できる。そして、取材当日は日中で気づかなかったが、夜間に中庭から空を仰げばシンボルの月が望める……という仕掛け。つまり文字どおりの月光荘なのだ。
「そう、連日ジャズやボサノバ、ブルース……バンドの生演奏が入るんですよ」
 説明が遅れたけれど、康造さんはミュージシャンの顔をもつ人物でもあるのだ。
大正6年(1917年)の創業から来年でちょうど百年。
「本物の画材を追い求めて百年を迎える画材屋として、次の百年は、暮らしの中で絵を描いたり飾ったりする楽しさを、こういうサロンという文化も含めて伝えていけたら」と、康造氏は語る。
 頭に地図を思い描いて、とある歴史物件のことを重ね合わせた。明治44年、洋画家・松山省三が開き、永井荷風ら文化人のサロンとなったカフェの元祖「カフェー・プランタン」が存在したのは、このすぐ道向こうの日吉町の一角。ここが、往年のプランタンみたいな溜り場になっていったらおもしろい。
 ところでこの店、メザシはないが、ガンボをはじめ本格のクレオール料理が楽しめる。
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