銀ぶら百年

夏だ! ビールだ! ライオンだ!

Ginza×銀ぶら百年 Vol.14

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

夏だ! ビールだ! ライオンだ!

2017.07.25

泉 麻人

 4丁目の交差点から銀座通りを新橋方面へ歩く。6丁目の松坂屋の跡には、脇のビルまで取りこんで大きなGINZA SIXの建物ができあがったが、その向こうに隠れるように7丁目のビヤホールライオンは健在だ。とりわけ夏に向かうこの季節、渋い薄紅色の外壁に〈ライオンビヤホール〉の黄看板が出たあの建物を見ると、ノドがキュッと鳴って、足が吸い寄せられる。
まずは黒ラベルの小グラスで喉を潤します
まずは黒ラベルの小グラスで喉を潤します
 とある初夏の日の薄暮のころ、僕はただライオンで一杯やろう……というわけではなく、この店の歴史を取材すべくやってきた。重厚な玄関口から1階のホールに入ると、平日の午後4時とはいえ何組ものグループがジョッキを傾けている。隅っこのテーブル席に腰かけて、広報の青山佳子さん(入社3年目のキュートな女性!)からお話をうかがう。「この7丁目のライオンは、昭和9年の4月に竣工したときから、内装はほとんど変わっていないんですよ」
いつもにぎわう7丁目の店内
いつもにぎわう7丁目の店内
いつもにぎわう7丁目の店内
創建当時の店内
 店内に〝おかげさまで83周年″の告知が見受けられるが、西暦でいうと1934年。さらに、開業日が僕の誕生日と同じ4月8日、と聞いて、なんとなく親しみを感じた(明治40年にこの場所に建った事務所棟にも大正7年からビヤホールは設けられていた)。
 天井の高い、ヨーロッパの教会のような雰囲気の店内で、なんといっても目につくのが奥の〝聖壇″の位置に掲げられたモザイク画。
 大麦の収穫をする農婦たちを描いたもので、畑の彼方にビール工場らしき物件も見える。このモザイク画を手がけた菅原栄蔵は、初代の東京海上ビルの設計などで知られる建築家・曽禰達蔵の弟子にあたる人で、ビヤホールの母体を築いた日本麦酒の名物社長・馬越恭平がじきじきに口説いたアーチストだった。馬越が贔屓にしていた金春通りの見番のレストラン(地階の「マユラ」)の内装を彼が手がけていて、その仕事が気に入ったらしい。
 東京の歴史に詳しい方はご存じかもしれないが、このライオンの前身にあたる元祖ビヤホールは、銀座通りの8丁目南端、現在の天國の所に存在した。誕生したのは明治32年の夏、およそ10年前の明治23年に発売された「ヱビスビール」の販売促進を目的に、社長の馬越が考案したアイデアだった。ちなみに、このあたりの歴史については、僕の古い知人でもあるサッポロビール文化広報顧問にしてヱビスビール記念館館長でもある端田晶氏(学校の1年先輩なのだ)の談話や資料を参考にしている。
ヱビスビールビヤホール
ヱビスビールビヤホール
 ちなみに、この時点でまだ現在の恵比寿にビール工場はなく、地名も存在しなかった。ヱビスは七福神の恵比寿様を用いた、いわゆる〝ブランドキャラ″だったわけだが、明治20~30年代当時、天狗ビール、富久ビール(オタフクのキャラ)、布袋ビールに福禄ビール(この辺は恵比寿ありきのものかも)……といったユニークな意匠ラベルの地ビールが数々と出回っていたようだ。
 本来の新橋の際、当時の町名でいう南金六町五番地に開業したヱビスビールのビヤホール、明治5年の銀座大火後に建築された2階建のレンガ屋を借り受けたもので、店内設計は日本橋の麒麟像などの装飾で名高い妻木頼黄が担当したが、このとき最後までゴタゴタしたのが〝ビヤホール″の名称。ビヤバー、ビヤルーム……いくつかの候補が挙がったなか〝ビヤサルーン″で決まりかけたが、当時サルーンの名は横浜でいかがわしい店にも使われていたことから、和製造語のビヤホールにおちついた。その後各地に増える〝ミルクホール″(牛乳をウリモノにしたカフェ)の名は、ビヤホールから派生したものらしい。
 馬越が考えたビヤホールのコンセプトは、当時高級なイメージが強く、格式張った料亭のような場所でしか、なかなか飲めなかったビールをいかにカジュアルに飲ませるか……といったもので、当初は料理のメニューも置かなかった。しかし、開店ひと月後の新聞記事を読むと、馬越の意図どおり、店はさまざまな階層の人々でにぎわっていたようだ。
「車夫と紳士と相對し、職工と紳商と相ならび、フロックコートと兵服と相接して、共に泡だつビールを口にし、やがて飲み去つて共に微笑する……」(明治32年9月4日中央新聞)。
 今日のビヤホールのムードがすでにできあがってるような感じだが、ビールの価格はまだかなり高かった。半リットルで10銭、というから、いまの価値に換算して、中ジョッキ(500cc)が約1500円。つまり、多くの人はグイグイよりチビチビ、飲んでいたんでしょうね。
 ところで、先に開業は明治32年夏……と漠然と書いたけれど、正確には8月4日。銀座ライオン各店では、いまもこの日にすべてのビールが半額で飲める。8月4日というと、もしや7丁目の店の4月8日開店というのも、この4と8の数字にこだわったのかもしれない。
 明治の銀座風景を描いた絵ハガキに、新橋側から4丁目、京橋方向を俯瞰したような構図がよくある。右にこのビヤホール、左にヒョウタン型の時計塔を掲げた勧工場時代の博品館の姿が見えるが、博品館の開業もビヤホールと同年の明治32年なのだ。お互い、当時の新しもの好きを狙って、申し合わせて出店したのかもしれない。
 さて、取材ばかりではなく、ビヤホールに来たらやはり一杯やらなくては……。生の中ジョッキとともに選んだつまみは、塩えんどう豆。コレ、えんどう豆をシンプルに塩ゆでしただけのものだが、あっさりしていてとてもいい。ビヤホール初期の素朴な肴を思わせる。そしてもう一品、「ビヤホールの煮込み」ってのをもらった。和風ビーフシチューっぽいもので、これもおいしかったけれど、注文するきっかけは昭和9年の7丁目の店の開業当初のメニューに、「ヱビス煮」というのを見つけたからだ。
塩えんどう豆とビヤホールの煮込み
塩えんどう豆とビヤホールの煮込み
 ヱビス煮――この正体については、青山さん、端田氏に聞いてもよくわからなかった。が、このメニューを載せたサッポロビールの社史『ビヤホールに乾杯』の文章の一節に、夏の名物に冷やしおでん(関東煮)があった……という旨が書かれていたから、これはもしや関東煮をもじった呼び名だったのかもしれない(ヱビスビールで煮こんでいたりして……)。この初期メニューには、「ビタミンビール」なんて、気になるもんもある。
 と、ここまで読んできて、おいおい5丁目のライオンを忘れちゃいないかい? 文句をいいたい方もいるだろう。もちろん、忘れちゃいません。そもそも「ライオン」の名はこちら5丁目の店から始まったのだ。
 以前、ここで明治44年の話を書いたときに取りあげた「カフェー・ライオン」(ちなみに、道の向こうの三越の前にもライオンはいるけれど、銀座三越がオープンしたのは昭和5年だから、こちらのほうがずっと先輩)。その年、プランタン、パウリスタとともに誕生した3大カフェの1角から、いまに引き継がれるライオンの名は発生した。由来は、店の経営者である築地精養軒(上野精養軒の前身)の北村宇平という人物が、ロンドンのピカデリー広場にあったレストラン「ライオン」を気に入って、拝借したものらしい。
カフェー・ライオン外観
カフェー・ライオン外観
カフェー・ライオンの店内風景
カフェー・ライオンの店内風景
 出たビールの量に合わせて店内のライオン像がヴォーッと吠える仕掛けとか、はす向かいのライバル・カフェータイガーとの女給をめぐる戦いとか、話題はいろいろとあったが、そういうカフェ時代のエピソードは割愛する。当初からビールを大日本麦酒(前身は日本麦酒)が仕込んでいた(ヱビス・サッポロ・アサヒの銘柄)が、やがて精養軒が経営から退いて、昭和6年8月30日より、大日本麦酒経営の本格ビヤホールとなって、いまに続く。
 僕が小学生だった昭和43年ごろまでは、2階屋の屋根にサッポロの星のネオンが輝く地上店だったが、昭和45年のビル改築以降は地階の店になった。
 広報の青山さんに導かれて5丁目のGINZA PLACE店へ移動。まずは地下1階「ブラッスリー」でしか飲めない名物クラフトビールをいただく。このビールシリーズは時期によって種類が変わるが、僕が味わったのは北海道生まれの「フラノマジカルホップ」を使っていて、マンゴのフルーティーな香りが効いていた。地下1階は入り口にカウンター席を置いた、バーあるいはブラッセリー調のつくりで、どことなくカフェ時代の系譜が感じられる。
うん、マンゴーの香りがいいね
うん、マンゴーの香りがいいね
 1つ下りた地下2階はゆったりとしたレストランふうの仕立て。7丁目では焼きあがりの時間が合わずに食べそこなったローストビーフをこちらでじっくり堪能した。
 5丁目のライオンは、地下1階の店のすぐ目の前が地下鉄の改札。仕事帰りにサクッと一杯ひっかけて、サクッと地下鉄に乗って帰宅するのもいい。このカジュアルなポジションこそ、ビヤホールの真髄といえるかもしれない。
イラストの八重樫王明さんと乾杯!
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