銀座いなり探訪

銀座いなり探訪

銀座いなり探訪 第8回 熊谷稲荷編

どんな道をすすむのか、は本人が決めていくことですが、どんな人と関わったかで道が変わってくることもあります。どんな街になっていくのかは、誰がそこで生活するか、で違ってくるのとどこか似ているかもしれません。
今回は人との関わりによって現代に生き延びてきたお稲荷さんの話です。

宇井野
荻窪さん、誰かとの出会いで進路が決定される、ていう体験ありますか?
荻窪
急に言われても困りますが、いろんな人に誘われては面白そうと思ったらやってみて、って人生を歩んでるので。普通の人って特定の強烈な人との出会いで未来が決まったりするもんなんでしょうか?
宇井野
賞の受賞インタビューなどで誰々さんとの出会いによって今の自分があります、とか耳にするなあと思って。
荻窪
ああ、ありますねえ。それにしても、なぜ急にそんな導入を?
宇井野
実は今回の熊谷稲荷神社は人との出会いの結果、ここにあるというお稲荷さんなんです。
荻窪
場所は銀座何丁目なのでしょう?
宇井野
ここは七丁目になります。七丁目の交差点から花椿通りを築地方面へ少し入ったところですね。
熊谷稲荷の場所。薄い緑は標高5mくらい、水色は標高2mくらい。中央通りのあたりは古くからの陸地でちょっと標高が高い。
熊谷稲荷の場所。薄い緑は標高5mくらい、水色は標高2mくらい。
中央通りのあたりは古くからの陸地でちょっと標高が高い。
荻窪
歩いて行くと、三十三間堀跡にでますよね。
宇井野
昔は出雲橋がかかっていて、そのたもとにあったそうです。
荻窪
あ、ありました。三十三間堀跡のちょっと先のビルの一角に小さな神社が。
花椿通り沿いの熊谷稲荷神社。ビルの一角にある小さな社だが歴史は古い。
花椿通り沿いの熊谷稲荷神社。ビルの一角にある小さな社だが歴史は古い。
宇井野
ここが熊谷稲荷神社になります。
荻窪
ビルの片隅に生き延びていたんですね。名前は、なぜ熊谷稲荷なんでしょう。
宇井野
町稲荷なのでしっかりした記録があるわけではないのですが、一ノ谷の源平合戦で活躍した熊谷直実が熊谷への凱旋の途中にこちらに立ち寄った際、地元から懇願されて護持の札を授けたのがはじまりだそうです。
荻窪
熊谷直実とは著名な武将ですよね。稲荷といいながら、源氏の氏神である八幡大神も祀っているのが武将由来っぽくていいですね。
宇井野
ということは、ここはそんなに古い土地だったんでしょうか?
荻窪
銀座に東海道が通ったのは江戸時代で、それ以前は江戸前島という北から南に延びる半島状の陸地でした。今の地形でもうっすらと高低差が残っているのでなんとなくわかると思います。稲荷があった場所はその江戸前島の南東の端っこですね。当時の街道(鎌倉街道)は江戸前島は通ってないので、舟ですかね。鎌倉から海路を通ってこのあたりの漁村に立ち寄り、その後北上して荒川へ入って熊谷に向かったとか?
宇井野
おお、そうなのですか?
荻窪
いやいや、想像です。さすがに800年前ですからね。むしろなぜ熊谷直実が出てきたのかが気になります。
宇井野
江戸時代にお芝居の題材としても人気があったのでは。
荻窪
ああ、そうかも。江戸時代に芝居小屋が並んでいたエリアだったというのも関係あるかもしれません。では三十三間堀がまだあったころの地図を引っ張り出してみましょう。ちょうど昭和16年に発行された京橋区の地図を持ってるんです。熊谷稲荷がどこにあるか。
宇井野
すごい。いつも思うのですが、なぜそんな古い地図をお持ちなんですか?
荻窪
東京の古地図収集が趣味なもので。ほら、銀座七丁目交差点から南東へ向かうと出雲橋があって、橋を渡ったところに神社がありますね。今は銀座ですが、江戸時代からずっと木挽町でした。木挽町の鎮守だったんですね。
昭和16年の京橋区詳細図(日本統制地図)より。三十三間堀の向こうは銀座ではなく木挽町だった。熊谷稲荷の旧地に神社の記号が描かれている。
昭和16年の京橋区詳細図(日本統制地図)より。
三十三間堀の向こうは銀座ではなく木挽町だった。
熊谷稲荷の旧地に神社の記号が描かれている。
宇井野
ほほう、昔はここにあったんですね。木挽町という町名、これはなぜそんな名前だったんでしょう。
荻窪
江戸城築城の際、木挽職人がここに集められたのが由来ですね。木挽き職人は原木をのこぎりで挽いて実際に使う材木に仕立てる人。材木は舟で運ばれますから、三十三間堀沿いのここはよい場所だったのですね。その後芝居小屋が建ち並ぶようになりました。
江戸切絵図(国立国会図書館蔵)より。赤く囲ったエリアが木挽町6丁目で、熊谷稲荷の鎮座地。
江戸切絵図(国立国会図書館蔵)より。
赤く囲ったエリアが木挽町6丁目で、熊谷稲荷の鎮座地。
宇井野
その後、稲荷は戦災からも免れました。周囲の建物が焼失した中で残るなど、火伏せの霊験があらたかだったそうですよ。一方、三十三間堀は埋め立てられ、一時期は地図からも消えてしまったそうです。
荻窪
焼失しなかったからか、埋め立てられたすぐあとの地図を見るとまだ残ってるんですね。
昭和28年の中央区詳細図(日地出版)より。三十三間堀は埋め立てられたが神社はまだ残っている。
昭和28年の中央区詳細図(日地出版)より。
三十三間堀は埋め立てられたが神社はまだ残っている。
荻窪
そんな稲荷でも木挽町が銀座の一部となり、銀座から東銀座にかけてビルがどんどん建っていく中で埋もれてしまったのですよね。
宇井野
そうなんです。実は今の場所に遷座されたのは2018年と最近です。
荻窪
銀座の稲荷がいかにして守られ、復活したか、興味深いですね。
宇井野
木挽町の稲荷の近くに「も組」の火消し鳶頭で木遣りの名手だった竹本金太郎さんが住んでいらして、戦前から稲荷を守ってくださったそうです。火伏せの神社を火消しの組のチームワークでお守りするのですから、最強です。その人の結束力を活かして、熊谷稲荷が総本山である伏見稲荷から分社された記録を膨大な資料の中から見つけ出す、などの“武勇伝”もあるそうですよ。
荻窪
今ではそういう結束力のある地域、なかなかないでしょうねえ。
宇井野
そうなんです。人間の密接な関わりによる文化は残念ながら失われつつあります。一方、埋め立て地だったこのあたりの土地は、戦後になって三十間堀が埋め立てられ、跡地が民間に払い下げられたのですね。持ち主が移り変わりながらも、だんだん大きなビルを建てるために、まとめられていった。
荻窪
人は散り、土地はまとまり、なんですね!そしてその過程で熊谷稲荷の場所も動いてしまったのか。
宇井野
そうですね。一時期は建物の隙間に入ったり裏路地に入ったりで同じブロック内で何度か移動し、場所もわかりづらくて知る人も減り、地図からも消えてしまいました。その後30年以上かけてなんとか土地をまとめて、ようやくビルができたのが2018年。今のHOTEL MUSSEですね。その時は、神社はビルの屋上に遷座するか、元の場所に近いホテルの入口にするか、などいろいろな案がありました。でも、神社は多くの人に参拝してもらえるよう、表にあった方がよい、ということで花椿通り沿いに決めたんだそうです。
荻窪
なるほど。かつて三十間堀だった場所に鎮座しているのはそういう理由だったのですね。
宇井野
しかも、銀座のビル街ならではの工夫もあるんですよ。実はこの熊谷稲荷、社殿や鳥居丸ごと動くんです。
荻窪
え、なぜ?
宇井野
社殿の裏にビルの配電盤があるので、そこを開ける必要があるときに動かせるように、ですね。
荻窪
それは賢いかも。確かにいわれてみると動きそうです。
よーく見ると、鳥居と社殿は地面に埋まっておらず、確かに動きそう。
よーく見ると、鳥居と社殿は地面に埋まっておらず、確かに動きそう。
宇井野
姿や場所を変えながらも、それぞれの関係者の支えで伝えられてきた熊谷稲荷。今では銀座八丁神社めぐりにも参加されているお社です。
荻窪
江戸時代の木挽き職人が集められた木挽町の鎮守からはじまり、それを町火消し蔦の竹本さんが受け継ぎ、高度成長期やバブル期の建築ラッシュを今のオーナーさんが守り、令和になって表通りに復活という歴史を経ていたのですね。
宇井野
そうなんです。その時代に応じて形を変えつつ、関わる人を継ぎ替えながら、町の鎮守であり続けたのが熊谷稲荷。実は稲荷が関わる人を厳密に選んできたのかもしれないな。そして稲荷との出会いでみなさんの人生も変わってきているのかもしれませんね。なんだか出だしとは逆のお話になってしまいましたが、それも含めてのご縁なのでしょう。