銀ぶら百年

三笠会館の唐揚げのヒミツ

Ginza×銀ぶら百年 Vol.05

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

三笠会館の唐揚げのヒミツ

2016.04.25

泉 麻人

 銀座は表通りの広々とした歩道を散歩するのもいいけれど、ちょっと横道にそれるとホッとする。西五番街、みゆき通り、交詢社通り、タテヨコの静かな道を歩いていると、なんとなく銀座の通人になった気分になれるものだ。
 並木通りも好みの道。この日は新橋の側から歩いてきたのだが、画廊があり、レストランのロオジエが入っている資生堂本社があり、25や53の番号を打ったMARUGENのビル、いまや珍しくなった電話ボックスが2つ3つ、そしてROLEX、OMEGA、HUBLOT、この道には高級時計店が集まっている。
 さて、今回の目当ては晴海通りも近くなってきた5丁目の三笠会館。鹿のエンブレムとスカーレットの幌看板が印象的なこの建物、近ごろ再開発が盛んな5丁目のブロックでは、どっしりとそこに構えた重鎮的な存在といっていい。昭和30年に発行がスタートした「銀座百点」のバックナンバーをめくっていると、ある名物料理の名を掲げた広告が初期のころからしばしば入っている。<若鶏の唐揚>だ。

 お気軽にお立寄を
  若鶏の唐揚 レストラン三笠會舘

そうか、三笠会館の唐揚げがおいしい……って話、以前から耳にしてはいたけれど、僕が生まれるころにはもう看板メニューだったのか。ちなみに僕が三笠会館に行くようになったのは大学生の時代。慶應の広告学研究会ってサークルに所属していたのだが、ОBの人たちも集まる大きな例会はだいたいココの宴会場で開かれていたおぼえがある。そのとき、無意識に名物の唐揚げをつまんでいたのかもしれない。
「銀座百点」の名物コラム<百点採点>に載った三笠会館の紹介記事(昭和30年11月号)に以下のように解説されている。
「一躍三笠の名をあげた若鶏の唐揚は、この店独特のものであり、手でつまんで食べる野趣といい、味といい、名物の名に恥じないものです。そもそも鳥料理を採り上げたのは、往年小林一三氏が説いた養鶏立国論にヒントを得たのだということです。また最近印度カレーを始めましたが、数々の薬味を添えた風変りなもので、食通の間に喜ばれているそうです」
 このカレーのほうも、いまは唐揚げと並ぶ看板メニューになっているらしい。
昭和30年代の「銀座百点」誌面に掲載された広告
昭和30年代の「銀座百点」誌面に掲載された広告
 三笠会館上階の個室で、総料理長兼工場長の河原敏彦さん、広報担当の武井美和子さん、お二方から話をうかがうことになった。とくに河原さんは、昭和50年代くらいから厨房の現場にいらした方だ。料理の話に入る前に、創業者の谷善之丞という人物について尋ねてみた。
「わたしが昭和50年に入社したときはまだ社長として在職されていたんですが、翌年に亡くなられまして……」
 僕が大学サークルの例会でくるようになったのも、ちょうどそのころなのだが、ともかくこの谷という創業者がなかなか興味をそそる人物なのだ。手元にある『東京風物名物誌』(岩動景爾著・昭和26年初版)の解説が愉快なので、少々長くなるけれど引用させてもらう。
「谷善之丞氏は立志奮闘伝中の人物。体軀短小なれども心胆広大、才智弁舌に富んで而も情義恩愛の念豊か。明朗率直、難を恐れず、労を厭はず、事に当っては努力敢行の士、人に交っては篤信懇情の仁。店にあっては従業員を指導養育する事親爺の如く、外に出でては世人のため奔走盡力して廻る事くるくる廻る水車の如くこまねずみの如し。口八丁手八丁合せて銀座十六丁をはみ出して、日夜活動馳駆する姿は秀吉を小さくして玩具のジープに乗っけたる如し」
 そもそもこの岩動という書き手の文章が軽妙なのだが、ノッて書いているのが伝わってくる。谷善之丞――取材者を魅了する好人物だったのだろう。
「奈良は吉野の山麓に南朝の流れを汲む旧家植林を業とする家に生れ、二十五歳の時木材業に手を出して失敗、二十七歳(大正十三年)五十円を懐に上京」紆余曲折したあと、「賢妻の差出したる婚礼衣裳を八百五十円の資金に替えて、歌舞伎座前に間口二間奥行二間の店を購ひ独立した(今の三笠グリル)」とある。
 屋号の三笠は奈良の三笠山、鹿のマークもそこに由来するのだ。当初の業種は氷屋(甘味のかき氷)だったらしいが、なぜ氷菓から始めたのかはよくわからない。出発点の「グリル三笠」は昭和30年代ごろまで、三原橋交差点角の日乃出寿司の隣、現在「長岡ビル」という、永谷園のお茶漬けのりの看板を掲げた緑色の細長いビルが建っている所に存在した。
昭和26~40年の三笠会館の外観
昭和26~40年の三笠会館の外観
 氷から甘味全般に手を広げ、フランス料理のレストランを看板にした三笠会館がいまの場所に建ったのは戦後まもないころ。<若鶏の唐揚>を始めたのは昭和26年というが、食糧事情が芳しくない当時、「若鶏」にこだわっているのもすごい。先記した“小林一三の養鶏立国論”がヒントという説は、さほど信憑性がないらしいが、当初は、コックの1人が中華料理にある「豆腐の唐揚」をヒントにして、鶏肉を揚げたものを提案したのが発端、という説もあるようだ。
 ひととおりの話をうかがったところで、「若鶏の唐揚げ」と「インドカレー」の2大名物が運ばれてきた。まずは唐揚げのほうからいただく。これは“食ㇾポ”ではないのでこまかくは書かないが、肉質はジューシー、皮はパリッとスパイスもきいて、格別にウマい。ちなみに若鶏は“1キロ前後のヒナ”という規定があり、ここでは当初から我流の仕込みをしてきた。
「よくある唐揚げのように長くタレに漬けこまないで、また粉をまぶしたあと、ぎゅっと丸めずに、平ったい肉のままサッと揚げるんですよ」
 こういう説明は絵解きしないとわかりにくいが、調理法としては和製唐揚げよりフライドチキンに近い。そして、なんといっても秘伝のタレがきいている。かなりスパイシーで濃口と思ったら、醤油自体は意外にも薄口を使うらしい。さらに、カラシと白ゴマというユニークな薬味がついている。
以前の提供スタイル
以前の提供スタイル
現在、唐揚げは1階のラ・ヴィオラでオーダーできる
現在、唐揚げは1階のラ・ヴィオラでオーダーできる
 いっぽうのインドカレーも絶妙の味だったが、とくに風変わりなのは食材。骨つきの鶏はいいとして、コリッとするのは砂肝。コレがけっこういい食感を醸し出している。
「首ツルって部位とか手羽先、砂肝、つまり唐揚げでうまく使えない所をカレーの材料に、というのが発端なんですよ」と、河原さん。
 なるほど、食材を無駄にするな……という先代からの教えなのだ。ところで、実際このカレー、ライスはフライドオニオンをのせたバターライスだし、ルウもデミグラスソースの風味が感じられるし、インドというよりかなり欧風カレーの味に近い。
 昔の写真を見せてもらって、ヨーロッパの山小屋ふうの昭和30年代ごろの建物(中庭もあった)も素敵だが、若鶏の唐揚げに添えられたナプキンや骨入れの容器に描かれたヘタウマ調の鹿のイラストにグッときた。内部の人間が即席で描いたものではないか? というが、ロゴマークのシュッとした鹿とはまた別の味がある。
 銀座十六丁をはみ出す秀吉……のような創業者・谷善之丞の作だったら申しぶんない。
「銀座百点」誌面では、毎月の「銀ぶら百年」取材時に泉さんが買った・見つけたものについてのミニコラムを連載中です。
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泉 麻人   いずみ あさと

1956(昭和31)年、東京生まれ
慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。「週刊TVガイド」編集のかたわら、「スタジオ・ボイス」「ポパイ」などに寄稿し、 1984年よりフリーのコラムニスト・作家として活動し、『東京23区物語』など東京をテーマにした作品を多数発表。近刊は『還暦シェアハウス』。

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