銀ぶら百年

明治44年の銀座広告

Ginza×銀ぶら百年 Vol.08

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

明治44年の銀座広告

2016.07.25

泉 麻人

 前回は銀座8丁目にかつて存在したデパートの走り、「天下堂」の話を書いたけれど、原稿を書き終えてからちょっと気になることが出てきた。僕は明治42年11月の開業の新聞広告を見つけて、永井荷風が44年7月の随筆「銀座界隈」で屋根裏から一望した銀座風景を綴っているのはこの開業時の建物、と思っていたのだが、前回も参考にした「銀座文化研究」第5号の巻頭ページに載った博品館から銀座方面をとらえた写真をよく見ると、「新築工事中の天下堂 明治44年頃」と、骨組だけの天下堂に説明が付いている。すると、もしや天下堂は開店してまもなく建て替えられて、荷風が展望台として利用したのは「44年頃」に建った2代目なのかもしれない。
 そんなきっかけで、明治43年、44年にかけての東京朝日新聞縮刷版をあらためて丹念に調べ直した。“新築”や“高層”を呼び文句にした天下堂の広告が載っているのでは? と期待したのだが、42年暮れの開店時以降、パッタリ広告は見当たらなくなった。とはいえ、紙面をにぎわすこの時代の銀座の店の広告は興味深い。まずは天下堂のネーミングのネタ元とも思える「天賞堂」。それから、“日本一の商品陳列館”と謳った「帝国博品館」、懐中時計の挿画を入れた「服部時計店」といったあたりは後年まで続く銀座の大御所だ。“花柳病”を看板にした医者(銀座だと木挽町あたり)の広告がよく載っているのもこの時代らしいけれど、「へー」っと思ったのは44年8月9日の紙面に見つけた「カフェーライオン」の開店告知。そう、この年はプランタン(4月)、ライオン(8月)、パウリスタ(11月)という3軒のカフェーが銀座に誕生した“カフェー元年”ともされる年なのだ。
「カフェープランタン店内」『資生堂百年史』より
「カフェープランタン店内」『資生堂百年史』より
しかし、このライオンの広告、読んでみると実におかしい。開店披露のため西洋料理をごちそうし1等から5等まで賞品を呈す、とあるのだが、以下のような条件が提示されている。

一. 精養軒(上野、築地、新橋、食堂車)
   にて西洋料理を食したる事又たエビス、サッポロ、アサヒビールを愛飲なしたる事
一. 前項の原因にて(不問男女)體重廿貫以上の強壮體となりたるもの 但外国人と力士は二十五貫以上に限る

 體重廿貫=体重20貫(75キロ)ということだが、外国人と力士は25貫以上って2段オチも笑わせる。文末に「特に新聞社員の立会を乞う」と添えられているが、その効あってか27日からは徳田秋声の連載小説「黴」が載っている文化面に4日間にわたって記者によるライオン探訪記が掲載されている。
「斯(か)う見えても大食漢の拙者(それがし)、二十貫は少少怪しいが、十八九貫は受合だと考へながら、旋風器がブウブウ云ふ隅の方の椅子に腰を下すと、鶴香水か何かの匂がプンと来て『あの、御注文は』と云ふ。『ビールの冷たいのを一つ』と答へて、両腋の汗を拭きながら、乗換にマゴマゴして居る田舎婆さんの後姿を、氣の毒相に見て居ると、此の時其の五十リットルで、ライオンがグワーと吼える」
 説明が後になったが、この店はビール50リットル売れると壁に据え付けられたライオンの顔(額)が吼(ほ)え声をあげる、という演出で知られていた。そして「乗換にマゴつく田舎婆さん」とあるのは、目の前の4丁目(尾張町)停車所の市電乗換風景を指しているのだろう。
 カフェーライオンは、現在建設工事中の4丁目交差点南東角に存在し、1960年代ごろまで「ライオンビヤホール」として業態は継承されていた。ちなみに、銀座通りの馬車鉄が電車に替わったのは明治37年ごろのことだが、東京市電として路線が整理されたのは44年8月1日というから、乗換えにマゴついていたのは田舎の婆さんばかりではなかったはずだ。
 鉄道でいうと、新橋側から線路が延びて有楽町駅が開業したのが明治43年(東京駅はさらに後の大正3年)だから、カフェーがこの年あたりに出現したのは公共交通の発展もおおいに関係しているに違いない。そして、3月には帝国劇場(日比谷側だが)が開場、それを意識して歌舞伎座も11月、洋風の帝劇に対抗して純和風調に新築(第2期)される。
「当時の歌舞伎座」『銀座細見』より
「当時の歌舞伎座」『銀座細見』より
 歌舞伎座のリニューアルに合わせたのか、専売法の制定で煙草屋を閉業した(明治38年)あの岩谷松平が「岩谷呉服店」としてセール広告を出しているのを発見した。
「十一月一日二日三日 勿驚大見物
 正札 一割引 店員一致誠心誠意勉強致升
 東京銀座 岩谷呉服店
 店主 天狗 岩谷松平 」
 うーん、しぶといね、この男。
「岩谷商会の店構え」『銀座細見』より
「岩谷商会の店構え」『銀座細見』より
 さて、歳末が近づくころになって、久しぶりに天下堂の広告に出くわした。「朝日新聞愛讀諸君に急告す」と見出しを付けて「流行帽子は天下堂に限」と相変わらず紳士帽を前面に掲げたものともう1つ、三越に続けとばかりに「商品切手(券)」を勧めるもの。いずれも社会面の記事の間に差しこんだ写真サイズの囲み広告なのだが、ほぼ同じ位置に同サイズでライバルとおぼしき店が広告を打っている。こちらも「朝日新聞愛讀諸君に急告す」と同じ見出しを付けて、ヒゲに蝶ネクタイの紳士のイラストまでよく似ている。
「銀座一丁目電車停留場の前に新築されたハイカラ堂デパートメントストーア 諸君よ本年の流行に後れぬ様に是非早く御覧なさいよ。冬季の嗜好に最適せるハイカラ向の品は何でもデパートメントなれば取揃有」「諸君よ買物はハイカラ堂に全く限り升よ」と締めているが、この軽薄なタッチの文章も含めて天下堂を意識しているのはミエミエだ。
「革命軍銀座に現はる」なんていう、当時発生したばかりの辛亥革命をさっそくパロッたような広告も出しているこのハイカラ堂、手元にある明治35年の地図には確認できないが、12月21日紙面の銀座歳末風景を紹介する記事にこんな一節がある。
「其隣のハイカラ堂は新橋際の天下堂と共に羽子板の陳列を以て人の眼を惹て居る」と、これを見ても銀座の北と南で張り合っていたのがよくわかるが、ハイカラ堂の其隣として書かれているのは「蓄音機商會」。当時、十字屋楽器店の広告にも蓄音機とレコードが大きく描かれ、流行していたことが察せられるが、この蓄音機商會については前回も引用した野口孝一氏の『明治の銀座職人話』に解説されている。
 日本に蓄音機を初めて紹介したアメリカ人のホーン氏が、川崎に会社と工場を置いたあと、銀座に出した支店第1号という。商品はともかく、この店の佇まいが興味をそそる。
「洋風三階建で、その屋上に大きな大仏さまが胡坐をかいて片手に耳をあてがい、横手の蓄音機のラッパに聞き入っている広告塔が、日本火災保険会社の布袋さん看板と共に、人目を惹いた」
 日本火災保険はこの蓄音機商會の北(京橋)側、南(銀座)側については「一軒おいて隣りに佐々木つやぶきん……」とあるから、このおかれた一軒の所がハイカラ堂、つまり現在も営業が続く佐々木商店の並び、「キラリト」の一角にあったのだ。
 結局、天下堂の新築に関する広告や記事は見つからなかったけれど、ハイカラ堂なんていう、銀座史の文献にもほとんど記録されていないレアな物件をまた1つ知った。そして、先の歳末風景記事の続きを読むと、明治晩年の銀座がまさにハイカラな街並みだったことが想像される。
「カフェーライオンでは窓へ雪中の梅、松上の鶴、雪中のサンタクロス杯を飾ってクリスマスを迎へて居る、亀屋は矢張明治屋と同じ紅葉の枝を飾り其枝に玩具を掛けて客の眼を悦ばして居る。博品館は館前を松の葉と鶴とで装飾し福引賣出しの景品を積んで入(いら)っしゃい入っしゃいと呼んで居る。天賞堂の日の出に松、鶴はお手の物の銀製で光り輝いて居る……」
 銀ぶらが生まれる予兆の感じられる、わくわくする描写だ。
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